桶谷秀昭「昭和精神史」「トカトントン」と検閲

厳粛とは、あのような感じをいうのでしょうか。私はつっ立ったまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく、つめたい風が吹いて来て、そうして私のからだが自然に地の底へ沈んでいくように感じました。

死のうと思いました。死ぬのが本当だ、と思いました。前方の森がいやにひっそりとして、漆黒に見えて、そのてっぺんから一むれの小鳥が一つまみの胡麻粒を空中に投げたように、音もなく飛び立ちました。

ああ、その時です。背後の兵舎のほうから、誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞えました。それを聞いたとたんに、眼から鱗が落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか。悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑きものから離れたように、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で、夏の真昼の砂原を見渡し、私にはいかなる感慨も、何も一つも有りませんでした。(太宰治『トカトントン』)
太宰治は8月15日正午に「天籟」を聴き、その記憶を持続し続け、それを表現した数少ない文学者のひとりだった。

つめたい風が吹き、からだが地の底へ沈んでいくという感覚。異様にひっそりとした森から一群の小鳥が音もなく飛び立っていくという光景。これは、荘子の「斉物論」が描いている隠者南郭子綦の心身が陥った状態を彷彿せしむる。

これは、厳粛な虚無感覚である。が、その時、「トカトントン」という音が幻聴としてきこえ、その虚無感覚をうちこわした。金槌で釘を打つ、ひくい、小刻みなあの音は、もの倦く、けだるい夏のま昼にふさわしい。

この小説の主人公は戦後、郵便局員になって平凡に暮しているが、労働者のデモ行進を見ても、共産党や社会党の代議士の激しいアジ演説を聞いても、いったんその幻聴が耳に鳴ると、何もする気がしなくなってしまうという。新憲法を一条一条熟読しようとしても「トカトントン」というくだりがある。

この小説が昭和22年1月号「群像」に発表されているのに注意が惹かれる。前年11月に新憲法と現代かなづかいが公布されたからである。

昭和21年という年は正月の天皇の人間宣言で始まって、新憲法発布と日本語の伝統的な文字づかいの廃止でおわった。それらはすべて、占領軍の強い意志によっておこなわれた。

明治が創設した日本近代国家は名実共に消え去った。それを日本人は極めて平静に見送った。言論の上に新憲法にたいするあげつらいが現れなかったのは、占領軍の検閲のせいでもあった。

「あれ(新憲法)が議会に出た朝、それとも前の日だったか、あの下書きは日本人が書いたものだと連合軍総司令部が発表して新聞に出た。日本の憲法を日本人がつくるのにその下書きは日本人が書いたのだと外国人からわざわざことわって発表してもらわねばならぬほどなんと恥さらしの自国政府を日本国民が黙認してることだろう。」

という一説が削除されて、中野重治『五酌の酒』が昭和22年1月号「展望」に発表されたという事実がある。

占領軍の検閲は、検閲削除が行われた事実すら明らかにしていないという徹底したもので、削除部分は伏字も空白にすることも許されなかった。これは戦前戦中の日本政府もやらなかったことである。

また、占領軍総司令部は、占領政策にたいする一切の批判を封殺する方針に則り、中野重治の、日本政府と日本人の不甲斐なさをあげつらう表現にことよせた、新憲法の下書きがアメリカ占領軍装司令部の手になる米文和訳憲法であることを暗示する、屈折した文章を、禁圧したのである。

太宰治の小説の主人公は、「新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン」という。これは検閲の網にかからなかった。日本人が無気力になる自由は許容された。が、この小説のはじめの方で、敗戦の日、兵隊であった主人公が、少壮の中尉から、

「聞いたか。わかったか。日本はポツダム宣言を受託し、降参したのだ。[しかし、それは政治上のことだ。われわれ軍人は、あく迄も抗戦をつづけ、最後には皆ひとり残らず自決して、以て大君におわびを申し上げる。自分はもとよりそのつもりでいるのだから、皆もその覚悟をして居れ。]いいか。よし。解散。」という訓示を聴く。括弧の部分は検閲のために削除されたものである。

太宰治の戦後における反抗精神は占領軍の検閲とすれすれのところで表現された。「真の勇気ある自由思想家なら、いまこそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下万歳!この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし、今日に於ては最も新しい自由思想だ。(中略)。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの真の自由の叫びを認めてくれるに違いない。」(『十五年間』)

これと同じ趣旨の部分を、かつて『パンドラの匣』(昭和21年6月)で書き、1年後の再刊本で訂正を余儀なくされた。『十五年間』は21年4月号「文化展望」に発表された。ここで太宰治は占領軍の検閲を意識して。あえて彼のリベルタン的「自由」思想をくりかえしている。
太宰治は昭和23年、つゆのために水かさの増した玉川上水に入水して死んだ。戦後のジャーナリズムの膨張の中で流行作家となり、原稿に負われる過重な作家生活と健康の衰えと生来の破滅に吸い寄せられる気質とが、死へ追いやったかにみえる。

しかし8月15日に彼が聴いた「天籟」と3年後の死とのあいだには、一本の糸がつながっていた。日本の再建だの、「文化」国家だのという指導言論に深く絶望していた。

「ほろんだのよ。滅亡しちゃったのよ。[日本の国の隅から隅まで占領されて、あたしたちは、ひとり残らず捕虜なのに、](括弧の中は検閲で削除)という『冬の花火』の女主人公が、束の間に抱く日本の幻想は、田畑を耕して、ラジオも新聞も読まず、選挙もなく、みんな自分の罪を自覚して、気が弱く、おのれを愛する如く隣人を愛して黙々と働く、桃源郷のような農耕生活であった。


<了>


桶谷秀昭 「昭和精神史」

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