古井由吉「槿」 泣き所
「それは、お前な」病人は人を戒めていた。「何から何まで人並みになろうとするから、人も物も見えなくなるんだ。たとえば音痴がいるさ、そいつに無理やり歌わせる、それが学校だ。歌えないなんてこんな貧しい人生はありません、さあ、皆といっしょに歌いましょう。これが今の世の中だ。そりゃ音痴は哀しいわな。若い頃ならひけ目を感じる。しかしそれで僻み者にならず、まっすぐに、四十まで来てみろ。人並みのつもりの人間たちのことが、よおく見えてくる。もう悪意も感じやしない。人情がただ面白い。いいか、手前の泣き所を通して、人が見えてくるんだ。そうだろうが。その泣き所をすべてなくそうとして、どうするんだ。すべて人並みだと安心したがるので、物がうっすらぼんやりとしか見えんのだ。お前はどう思う。言ってみろ。うん、そのとおりだ、うん。なに、人並みの幸わせだと、なに言ってやがるんだ、人並みとはな、お前、幸わせのことでなくて、人の道のことなんだ・・・・・・」
古井由吉 「槿」