【研究論文】に自分語りや時事問題を含めるか?
佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)です。20年弱続けた会社員生活を辞めて、アラフォーの無職、大学院生です。
研究論文の書き方、アカデミック・ライティングについて。いざ自分が博士課程の1年生となり、書き手として研究論文を安定して量産するために、情報収集と葛藤を続けています。
この記事では、
研究論文に、自分語りや時事問題を含めるか否か??
を考えます。
阿部幸大『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』によると、論文の結論部分は、本論を要約するだけでなく、枠組みを超えて、
1)研究プロジェクトを売り込む
2)時事問題に接続する
3)新しいエピソードを導入する(本論からのはみ出し)
4)自分を登場させる(個人的な動機を語る)
この4つを盛り込むことができる、としています。
本当にそうでしょうか??
これをどのように受け取ったらよいのでしょうか。
阿部氏の本は、「アカデミック・ライティングの教科書」というタイトルですが、狭義のレポートや論文の「書き方」に8章を割き、終わりの2章は「発展編」として、
・研究と世界をつなぐ(第9章)
・研究と人生をつなぐ(第10章)
と研究の意義、研究と世界、世界と人生の話を載せています。
ぼくには、これが奇異に見えてしまう。
研究論文のなかで(研究論文に関連づけて)、時事問題(世界との接続)、個人的な動機を語ると、ぼくが認識している研究の世界では、軽蔑されます。「あのひとは、将来をあきらめたんだな」「いよいよ焼きが回ったらしい」という評価になるでしょう。
終身雇用が保障された「教授」という押しも押されもせぬ社会的な地位を手に入れたひとが、逃げ切りの老年にかけ、授業のあいまの雑談として、あるいは信頼できる仲間内での飲み会で語るものです。いかに「教授」であっても、マスコミなどのインタビューに答えると、やはり「あのひとも、もうダメだ」と言われます。書き物に残すなんてあり得ないし、著作物のあとがきに忍ばせた途端に、ちくちく言われます。
誤解して頂きたくないのは、
ぼくは、このように時事問題や個人的な動機に口をつぐむ世界がダメだと告発(?)したいのではありません。
なにを規範とし、なにを正義とし、なにをマナーとするか。どのようなことをすると足を引っ張られて失脚するか、というのは、「業界」ごとの不文律があります。それに対して、良い・悪いと評するのは無意味です。
それぞれに経緯と相応の理由があります。
なぜ食い違うのか
阿部氏は、長い11年の大学院生の生活のなかで、村上春樹などの小説の作品論(の論文)を書いてきたそうです。小説はこの世界に無限にありますから、この手法を採り続ければ、論文が無限に書けます。
しかし、阿部氏はそれで満足しなかったそうです。
阿部氏が投稿する世界的な学術誌(トップジャーナル)は、作品論を採用しない。トップジャーナルが好んで掲載するのは、人種問題などの社会変革をめざす論文であった。社会変革を説けば、掲載された文章が同時代の研究者に引用される。そのことによって、トップジャーナルは、トップジャーナルとしての地位を保てるのだと。
なるほど。トップジャーナルは、そうなんですね。
「研究論文で、時事問題や個人的動機を語れ」という阿部氏のご指導は、アメリカのトップジャーナルの基準が反映されたものだったのだ、
とぼくは結びつけて理解しました。
だったらどうするか
これらを踏まえて、ぼくのような博士課程1年生の大学院生は、どのように考えたらよいのでしょうか。
ぼくは、大学院生は、時事問題や個人的動機を研究論文のなかに入れるべきではないし、口頭で漏らすことも慎むべきだと思います。なぜならば、それを是とする環境はないから。
大学院生が就職して大学教員を目指すとき、「博士号」が現実的に必須の資格となります(そのことの当否は論じません)。「博士号」を発行するのは、いま自分が属する日本の研究者の世界でしょう。その慣習に従う以外に方法はない。
もう少しミクロに、自分の先生がどのような指導方針なのか、という様子を伺っても良いかもしれませんが、「良識」ある先生ならば、時事問題や個人的動機をどんどん発信せよとは言わないでしょう(立場が保障されている先生自身とは別です!)。
阿部氏は、英語圏では、一人称「I」(私は)を使うことが論文指導として一般化していると書いています。英語圏では、そうなのでしょう。しかし、ぼくが見聞する範囲での日本の研究では、なるべく主語を消して、あたかも無限遠方で客観中立の無人格が叙述しているかのように書くことが奨励されているように思います。
繰り返しますが、そのことの良い・悪いは論じません。
日本の研究の風潮がナンセンスだと主張し、英語圏に準拠して「私は」や「筆者は」を研究論文で連呼すると、変になると思います。格が下がります。感想文ならばTwitterでやってて下さい、ってなります。
日本の研究では、内部の要請する不文律に従って、個人的な動機や時事問題を論じない。「博士号」を取得した後、英語圏のトップジャーナルに投稿するならば、英語圏の不文律に従えばよい。
けっきょくは環境や市場に従え、ということではないかと。
文部科学省などから研究資金を獲得するときは、さらに別の「市場のルール」がありますから、二枚舌、三枚舌になるのでしょう。文部科学省は、研究の意義を聞いてきますが、そこで答えるべき時事問題、研究の動機、研究プロジェクトの売り込みは、また別のことでしょうね。
いずれにせよ、研究もまた、相手(買い手)があっての営みですから、その部分を見せるか、どのように見せるかは、単純ではありません。ウソをつけという意味ではありませんが、区別がかなりしんどいです。
「ひたすら真実を解き明かしてこそ」みたいなピュアな心持ちだと、早晩、挫折するような気がします。
そういうあなたはどうなのか
ひたすら個性と自我を消せ、というのが日本の大学院の良識であり不文律である、というのを分かっていながら、
あなた(このnoteの記事の書き手、佐藤)は、こんな記事を書いているじゃないか、というご指摘があり得るでしょう。
なぜか。ぼくはアラフォーで、当面の生活費は資産運用でまかなえます。博士号は学業のマイルストーンとしてほしいと思っていますが、死活問題ではありません。大学教員のポストも希望していません。
だから、こんなことを書けるんですね。
この記事は、大学院生や若手の飲み会で話し、「こいつ気が狂ってやがるぜ」と軽蔑されるような内容でしょう。でもネット上に書いちゃうのは、日本のだれか(今回の場合は、とくに大学院生)の参考、気休めになればいいなと思っており、社会の大人たちに「ふうん」と思ってもらえたならば収支が合うな、とぼくが思うからです。