もうすぐ「母」という季節がやってくる
毎年この時期になると必ずと言っていいほど”謎の風邪”を引く。
症状は毎回決まっていて鼻の奥が痛くなり、その後に発熱する。
節々の痛みが酷くなるかなといったところで、何事もなかったかのように治る。
その度に私はつぶやく。
「ああ、もうそんな季節か」
と。
私は母の”死に目”に会えなかった。
今から20年ほど前の冬。
卒業論文を仕上げるため、東京へ帰る準備をしていた私に、母は病室の窓の向こうをぼんやり眺めながら、
「勉強邪魔してごめんね」
と消えいるような声で言った。
それが私が聞いた母の最後の言葉だった。
それから二日後に「母危篤」と姉から連絡が入った。
その日は東京でも珍しいほどの大雪だった。
そのため電車は全て止まり、私は帰ることができなかった。
そして次の日、朝いちの電車に乗ろうとした時に、
「今寝たよ」
と兄からショートメッセージが届いた。
電車のドアがぐにゃりと歪んだ。
電車のベルもドアの閉まる音も全く聞こえなかった。
それからしばらくのことはあまり覚えていない。
ただ覚えているのは400人以上もの参列者が母の前で泣き崩れている中で、私だけが微笑んでいたことだ。
その時の私の心をいっぱいに満たしていたのは、失った悲しみでも間に合わなかった悔しさでもなく「安心感」だったのだと今は思う。
”やっと終わった”
という今まで味わったことのない解放感だった。
母は、
「あたしは本当は人工透析を受けないといけない身体だけど紫斑病で血が止まらないからそれができない。『代わりに利尿剤としてビールをたくさん飲んで』って医者から言われたから飲んでいるんだ」
と、言いながら毎日瓶ビールを5本以上空けていた。
父は自営業で毎月の収入が不安定だった。
そのため、給料が少ないと決まって母はビールではなく度数の高いウイスキーを飲み、血を吐いていた。
私はその光景を幼い頃から母に見せつけられて育った。
”お金がなければ母は死んでしまう”
そう思い、私は高校から浪人、大学入るまでの4年間、夜中まで働いて母に毎月7万円のお金を渡した。
典型的な「ヤングケアラー」だった。
倒れてから亡くなるまでの間に病院で精密検査があった。
母の内臓は肝臓以外は全て「正常」だった。
もしかしたら昔医者に言われた通りに毎日ビールを飲み続けてきたから、そこまで回復できたのかもしれない。
しかし仮にそうだったとしても私や家族が受けた「愛するものを失う恐怖」そしてその裏にある怒りは到底消すことはできない。
母は自分の命を人質に家族を脅し操った。
私があの日感じた安息は、この”人質”を解放されたからだったのだと思う。
私は傷ついてきたのだ。
「このことをお父さんに話しちゃいけないよ」
「話したらあの人は自分を責めて自殺してしまうから」
と脅され、父をはじめ家族や周囲の大人に話すことができなかった。
私はずっと孤独だった。
今年はコロナ後遺症による複雑性PTSDの治療のため、1年間トラウマケアを実践してきた。
「トラウマリテラシー」がついたおかげで、自身の発達性トラウマや愛着トラウマの存在に気がつくことができ、セルフコンパッションやエクスポージャーセラピー(過去の傷を物語のように言語化して俯瞰し癒すこと)を実践する中で少しずつ治療することができた。
そうした中で先日、生まれて初めて夢に母が出てきた。
〈夢〉
それは実家にたくさんのメロンが届いたところから始まった。
台所に行って母に、
「メロン食べて良い?」
と聞くと母は真顔で、
「食べるなら2千円渡しなさい」
と言われた。
そこで私は怒りが爆発し、
「なんで頂き物を食べるのに金払わなきゃいけないんだよ!」
と叫んだ。
私の声を聞きつけた父と姉が駆けつけてオロオロする中、母親は聞き取れない文句(私は悪くない的な)を吐き捨てながら家を出て行った。
そこで目が覚めた。
私が大学生の頃、
「ちゃんとご飯食べてるのか?」
と心配して3千円を手渡してきた。
そして東京へ帰ろうと準備をしていると家族全員の前で、
「お前は小遣いもらうとすぐ東京へ帰るんだな」
となじられた。
何度も言うが私は高校から予備校までの4年間で母親に生活費(酒代)として述べ300万近くを渡していた。
子供の頃からいただいたお年玉やお小遣いは全て母に渡していた。
母は周囲の人に、
「この子は物忘れが激しくてお金をすぐ無くしてしまうの」
と言いふらしていた。
今はこれがNPDによる「ガスライティング」だったと理解することができるが、当時の私にその知恵はなく、そうした“心の怪我”が積み重なっていき、私の心はどんどん蝕まれて行った。
倒れるひと月ほど前に実家に帰った時、母はいつものように険しい顔をしながら「お父さんの給料が少ない」と父の陰口をこぼした。
私はその時、
「陰で支えている人の悪口を言うのは良くないと思うよ」
と母を諌めた。
すると母親はものすごい嫌な顔をして、
「お前はすぐそうやって偉そうに正論をかざすんだ」
と吐き捨て、それから私に背を向けてテレビを眺めていた。
私は子供の頃からずっと毎晩のように母の愚痴を聞かされてきた。
そして反論したことなど一度もなかった。
たった一度の”反抗”で母は逆上し、その日から母は私を無視するようになった。
その矢先に倒れ、あっという間に亡くなった。
それからは、
「なんであの時いつものように愚痴を聞き流すことができなかったのだろう」
と罪悪感に苦しめられた。
それ以来、私はますます気持ちを言葉にすることができなくなっていった。
けど今は違う。
こんな夢を見ても、
「ああ、怒りがずっと溜まってたんだな」
「母と喧嘩したかったんだな」
「それほど母を愛してたし、愛されたかったんだな」
「一度でいいから感謝されたかったんだな」
と自分のことを俯瞰できるようになっていた。
右手で左の腕をさすりながら、
「今まで本当によく頑張ったね」
「辛かったね」
「悲しかったね」
「悔しかったね」
「あなたは何にも悪くないよ」
と、私の中の”アダルトチルドレン”に対して優しい声で囁いた。
その時、一筋の涙が頬を伝わった。
こわばっていた肩の力が抜けた。
「ああ、スッキリした」
「もう大丈夫だな」
と思った。
今の私には”私”という最大の味方、理解者がいる。
明日が母の命日。
あの夢以来、夢も見ないほどぐっすり寝られるようになった。
そして今のところ、あの”謎の風邪”の気配は全くない。