
映画「こどもしょくどう」を観ました
虹の雲
虹の雲(彩雲)は、吉兆や縁起の良いものとされている。
この映画で、こどもたちが探す虹の雲。
虹の雲を見つけて、取り戻したかったもの。
それは、お母さん。でも、お父さんは?
虹の雲が出ていても、主人公は気づかない。目の前のものを必死に追いかけているけれど、幸運は、逆方向(気づいていない場所)にあるかもよというメッセージだったのだろうか。過去に虹の雲を見たのに、不運に見舞われた子ども達(父子)。最後に、虹の雲を見たのは、こどもたちのこれからが幸せであるという暗示であってほしい。
よく見ておきなさい
映画には、無駄な瞬間は1秒だってない。
どの瞬間にも意味があるのだろう。
主人公の母の言葉「よく見ておきなさい」。
警察から児童相談所に移送される姉妹の、何を見ておけという意味なのだろう。主人公に言っているのではなく、観客である私に言っていたのだろうか。
その言葉を言った主人公の母。主人公の通学路で車中泊をしている姉妹の様子を、見に行くことはない。なぜだろう。
主人公の父は、虐待通告をして、姉妹の両親から文句を言われる事を心配していた。いま、危機に陥っている姉妹よりも、自分を守る。
姉妹は小学生。通っていた学校に通学しなくなった場合、安否は確認しないのだろうか。転校先の学校と情報共有はしないのだろうか。父に連絡が取れなかった可能性もあるけれど。
姉妹だけで車中生活をしていても、誰もその存在を知らないなんてこと、あるのだろうか。小学生の通学路のそばなのに。中学生が車を破損するまで、誰も警察に通報しない。なぜだろう。
主人公が車道を走って、姉妹を移送する児童相談所の車を追いかける。なぜ、児相の車は停車して、主人公の安全を確保しないのだろう。
いろんな疑問が浮かぶ。
万引きを見逃すのは、優しさのようでいて、
姉妹の困りごとが、気づかれるきっかけを奪ったともいえる。
姉妹の存在は、無視され続けた。
見過ごしていないか。
気づかないふりをしていないか。
知らなかったと言い訳していないか。
よく見ておきなさい。
身近に起きている事と、自分の行動を。
ということか。
小さな異変に気づいて
小さな異変に気付く。
表情、衣服、体型、臭い、なんだか変な感じ。
その小さな異変に気づいても、
どうすればいいか分からない事が課題だ。
虐待通告は、国民の義務である。
虐待が疑われたら、通告しなければならない。
たとえ虐待がなかったとしても通告者は責められないし、
匿名での通告も可能だ。
それでも、通告しにくい。その気持ちも分かる。
誰かが通告を迷っていた時に、その人と葛藤を分かち合い、
虐待通告「189(イチハヤク)」につなげて欲しい。
小さな異変を、無かった事にしないでください。
タカシ
生活の世話をしないのは、虐待だ(ネグレクト)。
暴力は連鎖し、繰り返す。
虐められていたら、偏見がなくなるのではなく、
さらに弱い立場の人を蔑む。
同級生に「臭いんだよ」と罵られるタカシが、
車中泊の姉妹を「あいつら臭かったね」と言う。
タカシが受けている虐めを止められず、無視していた主人公。虐められているタカシに、虐められないように行動できないのかという主人公。
虐める相手に対して、暴力で応戦するのは、タカシの成長か。
正当防衛か、それとも、暴力か。
タカシがいじめっ子に暴力で応戦した時に「止めろ!」と言ったのは、主人公の成長か?それとも、タカシへの命令か。
主人公とタカシは対等か。
家庭環境が恵まれている主人公は、それだけで優位だ。
友達だったら、どう行動すればいいのだろう。
いや、主人公とタカシは友達だろうか?
主人公が止めた後、タカシは、振り向き、手を止めた。
あの後、暴力は誰に向く?
いじめっ子だけでなく、主人公に暴力が向く可能性もある。その場では暴力を止めて、他者にではなく、自分に暴力の矛先を向ける可能性もある。非行や自傷行為は、自分への暴力であるともいえる。
暴力もSOSだ。小さな異変だ。
タカシの異変に気づいてくれる人はいない。
居なくなっても
学校に登校していなくても
気にされない
心配されない
抱きしめてもらえない
タカシも、姉妹も、捨てられている。
タカシの無言の視線が、こちらを見ている。
こどもしょくどう
市民が、自分にできる行動をするのは、素晴らしい。
だけど?
こどもに無料で食事を提供することは、美談か。
こども食堂を、美しい市民活動とする社会は、
問題をすり替えられていないか。
映画を批判したいのではない。
こども食堂を批判したいのでもない。
いろんな課題を問いかけられた映画でした。

おわり