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中村彝「藝術の無限感」

一切は吾が心の鏡である。

一瞬スピリチュアル本かと思うような内容が記されている。死について考える事は、生を考える事。何かを探究する事で、辿り着く真理は、芸術も、信仰も、全て同じなのかもしれない。

1.芸術について

静かに座して何時もそれを旨く食ふ方法を知って居るものは、つまり心を會得した人と言へるでせう。石膏寫生とはこの意味に於て、人格の基礎です。

「肉眼を生かせ」より抜粋

今あるものの価値に気づき、それを活かす。それができれば、不足に不満を漏らして待つのではなく、今できる事に気づき、行動できる。今あるものに気づき、満たされる。

絵を描く事は、生きる事だった彝さん。芸術という視点から、生きるとは何かという事が記されている。

自分が気になるもの。それが、神でも国でも苦悩でも親でも恋愛でも人間関係でもお金でも、とにかく気になるなら、それをすればいい。苦しみも、努力も、戦いも、信仰も、労働も、自分が気になるなら、それをすればいい。

自分は、何よりも先ず自分の繪のことが氣になつてならない、だから自分は繪を描くことにすべてを捧げてゐるのだ。

「気になるもの」より抜粋

生きたいように生きればいい。

2.詩、俳句

彝さんの詩や俳句から伝わるもの。
冬の夜にひとり血を吐く時の苦笑い。
肺のラッセル音と心臓の鼓動。
芸術の捉え方。

神祕

永遠の約束によつて
理性を喜ばせる線がある
夢想を引きつける微光がある
情意を躍らせる形がある
渾沌の中に
それをあばくのが
畫家の務めなのだ

結核を患い、死をすぐそばに感じながら、
生きていた彝さんだからこそ、

生かされている事の尊さ。
この生命をどう使うのか。

目の前に「ある」もの。
それらをいかに絵に描くか。

技術じゃなくて、いかに見るか。
見えなければ、描けない。
見えたとしても、描くことの苦悩。

それらの結晶が絵画。

それを価値あるものと見るかは、
見る人の価値観。

絵画には、画家の生きざまが描かれ、
見る人も価値観を炙り出されるのだ。

3.書簡

分厚い本書。大部分は書簡だ。

大正四年 三月 伊豆大島
中村春ニ様

體が丈夫になり度い。そして思ふ存分繪が描き度い。自分は今そのことばかり考えて居ります。

書簡より抜粋

思う存分、絵を描きたい。
それが、望みだったのだ。

手紙は故人を知る貴重な資料となる。

現代のやりとりは、SNSやチャット、スタンプなど。残された資料として、それらが本書のようにまとめられる未来があるのだろうか。ちょっと風情に欠ける気がする。いや、今のやりとりも、未来から見ればアナログとされるのだろう。きっと。

編者によると、普段から会って話す人達とのやりとりは会話だったこともあり、身近で親密だった人達と彝さんの交流の記録が残っていないのが残念らしい。

残っていてほしかったような。
残らないからこそいいような。

自分が誰かとなにげなく会話したことが、記録されて、いろんな人に知られるのは、どこかヘンな気分だもんね。手紙だって、相手にだけ伝えたかったこともあるだろうにな。

有名人はツライね。

絵画という完成された作品だけでも、十分に素敵だけれど。その作品が生まれた背景にある作者の人生。その作者でなければ、描き出せなかった作品の裏側。それらを知る事で、より絵画を深く味わえるのは、幸せだ。

芸術という入口から、生と死についても、伝えてくれる彝さんの言葉。いかに生きるかという、先人の悟りを知る事ができる貴重な資料でもある。

彝さんが亡くなった後、本書を編集した方々の尽力にも感謝したい。

4.芸術の無限感

最後に、彝さんの言葉を記しておく。

藝術の無限感

藝術には自然の如く無限が鎮座してゐなくてはならない。常識に目をまはさせるだけの無限がなくてはならない。超感傷的な意志だけがそれをなし遂げることが出来るのだ。それは美や正義よりも均衡を、愛よりも本能を、個人よりも運命を、職業よりも性格を、女よりも牝を、外貌よりも解剖を、肉體よりも構成を、肉色よりも色調を、個形體よりも對比形を、物質よりも律動を基脚とすることだ。山や草木や家よりも、太陽、風、水、微分子、霧雲、空氣、狂氣、毒氣、靈氣に根をおろすことだ。

「藝術の無限感(著者:中村彝/中央公論美術出版/1989年)」

※1:「藝術の無限感」が初めて世に出たのは1926年(大正15年)。
※2:本書の初版は1963年(昭和38年)刊行。


中村彝については、こちら。

おわり

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