「謙虚さ」とは人の話を聞けること
今日のおすすめの一冊は、小林正観さんの「こころの遊歩道」(弘園社)です。その中から、「二つの謙虚さ」という題でブログを書きました。
小林正観さんは『「謙虚さ」とは人の話を聞けること』についてこう語っています。
何か面白く楽しい情報があったとき、それを教わった人が開口一番で否定的なことを言った瞬間に、その情報を持ち込んだ人は、シュンとしてしまうのです。 そして、これ以上のことを言ってもまた冷たく否定的な言葉が返ってくるだけなんだと思ったときに、もう二つ目、三つ目の情報は話さなくなります。
この人に対して何か楽しそうな情報や役に立ちそうな情報を持ち込んでも、多分、役に立たないだろうと思ってしまうのです。 言葉を換えて言うと、「こんなことを考えつく人って、ずいぶん暇なんですね」と言った瞬間に、それはもう、それ以上のことを聞きたくないと潜在意識の中で言っているようなものです。
それは取りも直さず、「私はそんなことについて新しい情報を仕入れたくはない。今の私で充分なのだ」という驕り、高ぶり、傲慢、うぬぼれの側面を見せているということにほかなりません。
謙虚であるということは、自分以外の人が何が面白い情報や、楽しく新しい情報を持ち込んできたときに、「それで、それで」と言って聞く立場になること。つまり、自分の中に吸収しようとする心があること、常に好奇心や関心・興味があることが謙虚さの一つであるのではないでしょうか。
自分の中に、ある程度の勉強をしてきて、そんなつまらないことには関心がないという場合に、否定的で冷たい反応になるのだと思います。 で、開口一番そういう言葉が出てくるのでしょう。 その結果として、そこから先の話は進まなくなります。
謙虚であるということは、相手の話や情報をなるべくたくさん聞き入れて、自分が大きくなること(広がること)です。 謙虚に、興味を持って人の話を聞けば、相手は多分もっと話をしてくれます。 そして、そのたくさんの話の中から自分の感性に合うものだけを取り入れればよい。
その一つ一つの情報について、気に入る、気に入らない、と目の前で感想を言うことは意味がないでしょう。 「なるほど、そうですよね。それで、それで」というふうに、笑顔で相手の話を引き出すこと。 これこそが謙虚さであり、なおかつ、もっとも自分が得する立場というものではないでしょうか。 (ただしい人から たのしい人へ/弘園社)
人は、自分が認められたくて仕方のない生き物です。 だから、往々にして自分が多く話してしまい、人の話を聞くのが苦手です。 自分が多く話す人は、他人の話より自分の話の方が面白いと思っている人だと言えます。 つまり、謙虚ではないことをさらけだしているということです。
先生やリーダーや経営者など、人に話したり教えたりすることが多い人は、特に気をつけなければならないことだと思います。 謙虚さの反対は、偉そうになることだからです。 偉そうな人には情報が入ってきません。 他人の話を面白がって聞ける謙虚な人でありたいと思うのです。
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