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下り坂をたのしみ、味わう

今日のおすすめの一冊は、青山俊董氏の『泥があるから花は咲く』(幻冬舎)です。その中から「生かされているということ」という題でブログを書きました。

青山俊董氏は、本書でこんな一文を書いています。

「下り坂には下り坂の風光がある」これは念仏者で詩人の榎本栄一さんの詩の一文です。われわれは人生の旅路で、下り坂になったら“こんなところまで落ちてしまった”と七顛八倒して何も見えません。下り坂でしか見えない景色をたのしむことです。どん底に落ちたらどん底でしか味わえない風光をたのしみ、味わうことです。
一茶さんの句と伝えられているものに、「かたつもり どこで死んでも わが家かな」というものがあります。下り坂も、どん底も、上り坂も、あるいは峯の上も、どこも例外なく仏の御手のどまん中というのです。
道元禅師はこういう生き方を「遇一行(ぐういちぎょう)修一行」…一行に遇って一行を修す…という言葉で示されました。人生の目的を、たとえば明神池へ着くというような遠くにおかず、今、ここの一歩一歩におくというのです。どの一歩も、どの一瞬もかけがえのないわが生命の歩みとして大切に運ぶ、というのです。
茶道の弟子のHさんが癌になりました。ある日、「遇一行修一行」の一句を書いてくれといってきました。私はハッとしました。「癌という一行を修行する覚悟なんだな」と。早速書いて渡しました。Hさんはそれを枕もとに飾り、癌を修行すること数年、今年の初夏、旅立ちました…。
内山興正老師はよくおっしゃっていました。「人生の最期には、世捨て人じゃなくて、世捨てられ人状態が待っているであろう。その世捨てられ人状態という一行を、ぐずらず姿勢を正して取り組んでゆく。そのことに生き甲斐を感ずる」わが心にかなうとかかなわないとにかかわらず、「遇一行(ぐういちぎょう)修一行」と勤めあげてゆくことは、そう簡単なことではありません。そしてそれが「いつ死んでもよい」という生き方でもあるのです。

「下り坂」を味わう…、なんて奥深い言葉でしょうか。普通は「下り坂」に耐えるとか、「下り坂」をやり過ごすとか、じっと待つ、というような表現になるのだと思います。良寛さんは、地震にあった知人の見舞いに次のような手紙を書いたといいます。「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候  死ぬる時節には死ぬがよく候  是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」

災難にあったらあわてず騒がず、災難を受け入れなさい。死ぬときが来たら死を黙って受け入れなさい。これが、災難にあわない唯一の方法だ、というのです。これは、その時がきたら、ジタバタせず、従容(しょうよう)として、災難を味わう、死を味わうということなんですね。

下り坂をたのしみ、味わうことができる人でありたいものです。

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