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能は、なぜ花にたとえられるのか

今日のおすすめの一冊は、世阿弥の『風姿花伝』(致知出版社)です。その中から「人々を幸せにし、寿命まで延ばす」という題でブログを書きました。

本書の中に「能は、なぜ花にたとえられるのか」という文章がありました。

まずは「花が何であるかを知ること」について述べましょう。 それには、どうして私が花の咲くのを見て、能の演技によって役者が輝く瞬間を「花」にたとえ始めたのか、理由を語らなければなりません。
そもそも花というのは、あらゆる草木において、四季の折節で咲くものです。そのときそのときでつねに新鮮な感動を呼ぶから、私たちは花を愛するのだと思います。 猿楽も、人の心に新鮮な感動を引き起こすものだから、やはり「面白い」という心を引き起こすのです。花を愛する気持ちと、面白いという感情と、新鮮な感動の三つは、すべて同じ心から発するものでしょう。
この世に散らないでいつまでも咲き続ける花があるでしょうか? 散るからこそ咲くときがあり、新鮮なのです。能も決して一つのところに留まり続けるものでないから、花と同じ感動を生みます。 一つのところに留まることなく、別の演技にすぐ移るから、新鮮さを生むのです
能において名声を得る方法には、様々なものがあります。 たとえば上手な役者でも、その演技が目利きでない観客の好みに合うのは、難しいことがあります。 下手な役者が目利きの観客の好みに合わないのは、まったく不自然ではないでしょう。けれども、「上手な演技をしているのに目利きでない観客が理解できないのであれ ば、これはもう芸術性のわからない観客の問題ですから、どうしようもないのではな いか?」 という人もいます。
しかし能の道を極め、演技の工夫もできる役者であれば、目の利かない観客たちに も「面白い」と思えるような演技ができるはずなのです。 この工夫と相手に応じられる上手さを持った役者こそ、花を極めた役者とみなされるべきでしょう。
ここまでのレベルに達した役者であれば、どれほどの年齢になっても、若い花に劣ることはありません。 また、ここまでのレベルに達した上手な役者だからこそ、天下の京都で認められ、また同時に地方の都市や田舎の人からでも、普遍的に面白いと受け止められることで しょう。 相手に応じて演技する方法を会得した役者は、大和でも、近江でも、田楽の能の舞台でも、人の好みや希望に応じて、どこででも通用する演技のできる上手な役者とな れます。

置かれた場所で咲きなさい」という渡辺和子さんの言葉があります。我々の多くは、自分の努力を棚にあげて、置かれた場所に文句をいいます。こんな場所だからダメなんだと、自分が置かれた環境や状況など、人やまわりのせいにします。

しかし、どんな環境であろうと、そこで精一杯、咲く努力が必要なのです。そして、その時、咲けなかったとしても、そんなときは下へ下へ根をはやすときなんだと思うのです。「老樹(ろうじゅ)花、老いず」という言葉がありますが、まさにいくつになっても、若いときのように花を咲かせたいものです。

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