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落ち込んだり、有頂天になってしまう理由

今日のおすすめの一冊は、小林正観さんの『なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?』(イーストプレス)です。その中から「悟るとは、笑うこと」という題でブログを書きました。

本書の中に「落ち込んだり、有頂天になってしまう理由」という心に響く文章がありました。

ある人からこんな質問をされました。 …落ち込んだり有頂天になったりして、自分ではどうにもならない。 コントロール ができない。 落ち込んだあとにはまた有頂天になり、有頂天になったあとにはまた落ち込みが待っている。 この気分の起伏というものをなんとかできないものだろうか…。 

よくありそうな質問ではありますが、解決策はかなり簡単です。 落ち込んでしまうのは、自分が「大したものだ」と思っているのに、さほどの評価を得られなかったからです。 逆に有頂天になるのは、自分が「大したものだ」と思っているところに「大したものだ」「素晴らしい」という賞賛を浴びるからです。 

どちらも同じ心の状態がそういう心の起伏をつくっているということになります。 その心の状態とは、「自分が大したものである」「ちゃんとしたものである」と思うところから始まっています。 

自分が「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」「ちゃんとしたものじゃない」と心を定めることができたら、人間はとても楽に生きることができます。 

ちゃんとした人、いろんなことがきちんと全部できる人というのを、多分「正しい人」 と言うのだと思いますが、もともと人間はそんなに正しく生きるようにはできていないように思います。 

不完全で不十分で未熟。 やることなすこと完全にはできず、ミスばかり。 そういうものの積み重ねの結果として人間があるのだと思います。 「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」「ちゃんとしたものじゃない」と思うことができたら、非難されても否定的なことを言われても落ち込むことがなくなるでしょう。 

実際に大したものじゃないのですから、「大したものじゃないね」と言われて「確かにそうです」と笑顔で答えられるわけです。 大したものじゃないところにもってきてほめられたりしても、自分は「大したものじゃない」ということをはっきり自覚していれば、それによって舞い上がることもない。 

誰かに、ああだこうだと指摘されたり、上から目線で偉そうに言われたりすると、カチンときたり、ムッとしたりすることがある。 それは、自分が「大したものである」「なかなかのものである」と思っているからだ。 

怒りも、嫉妬も、驕りも、威張りたい心も、自分が「こんなにすごい」のに、なぜそんなに下に見られるのか、自分のが上だ、あなたにそんなことを言われる筋合(すじあ)いはない、という気持ちから発している。 

それが、「謙虚」でないという状態。 謙虚さを失うと、人の話を素直に聞けなくなり、教えを乞うことができなくなる。 すると人間としての成長がそこで止まってしまう。

 「おだてられれば いい気になるし わるくちいわれりゃ 腹たつわたし」

「花は ただ 咲く ただひたすらに ただになれない 人間のわたし」(相田みつを) 

ときに… 自分は「ろくなものじゃない」と考えることも必要だ。

今日のブログはこちらから→人の心に灯をともす


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