体は自分のものではない
今日のおすすめの一冊は、大愚元勝氏の『苦しみの手放し方』(ダイヤモンド社)です。その中から「愛語は人の魂に刻み込まれる」という題でブログを書きました。
ブログには書ききれなかった大愚元勝氏の「諸行無常」について書かれていることをシェアしたいと思います。
苦しみを産む原因のひとつは、「何かに執着する」ことです。「こうあってほしい」という思いを「執着」と呼びます。お釈迦さまは、「私たちの世界は、自分の思い通りにならないことばかりである」という真理を説いています。
知的障害の子ども(小学校低学年)を持った母親(T子さん)から、相談をいただいたことがあります。母親は、子どもの将来を悲観し、「こんな子に産んでごめん」と自分を責め、「どうして自分は、健常者の母親ではないのか」と葛藤していました。母親を苦しめているのは、「こういう子どもに育てたかった。こういう母親になりたかった」という執着です。
お釈迦様は、「そもそも、子どもは、親の思い通りにならないのだから、『こういう子どもであってほしい』と期待することが間違いである」と指摘してます。しかし、母親は、「出産前に思い描いていた憧れ」と現実の狭間で思い悩んでいたのです。
お釈迦様の教えを編纂した『ダンマパダ』(真理のことば)の中に、次の詩句が残されています。「『私には子がある。私には財がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」
世の中の物事は、常に変化を繰り返し、同じ状態のものは何ひとつありません。それが仏教の教える「諸行無常」です。自分も、財も、子どもも、すべてが無常の存在であり、必ず変化しています。それなのに私たちは、自分を取り巻く環境に対して、「不変であってほしい」「こうであってほしい」と望み、執着しています。お釈迦様は、「思い通りにならないもの」に対して「こうあってほしい」と思い悩み、執着することを、あらゆる苦しみの根源とみなしています。
「この子はこう育てなければいけない」「自分はこういう母親にならなければいけない」という思いを手放す。「こうであるべき」という執着をひとつずつ捨てていくことで、苦しみは剥がれ落ちていくのです。
諸行無常とは、世の中に起こること一切は、常に変化し続けるということです。すると、自分の体も自分のものではない、と言うことになります。なぜなら、完全に自分のものであるとするなら、自分の身体をコントロールすることができるはずです。しかし、現実は、誰にも必ず老いはくるし、病気もやってくるし、最後には死もあります。つまり、自分の体も自分のものではないということ。
ましてや、自分の子どもが自分のものであろうはずがありません。すべては諸行無常である、ということです。森羅万象、すべては変わっていく。財も同じです。どんなにいい車を買ったとしても、それは必ず古くなります。家も、財産も同じです。
自分の体が自分のものでないとしたら、それは誰のものでしょうか?それは、神様からお借りしたもの、と思ったほうがよさそうです。借りたものだから、大事に使って、大事にお返しする。
まさに、ブログのテーマである「愛語」も同じです。「愛語」のシャワーを浴びれば体の細胞が活性化します。細胞が喜ぶわけです。すると、細胞が生き生きとします。つまり、いつまでも若くいられるということです。体を大事にするということは、そういうことだと思います。
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