「死」が生物を生み出した
今日のおすすめの一冊は、更科功(さらしないさお)氏の『残酷な進化論』(NHK出版新書)です。今日のブログは同名の「残酷な進化論」と題して書きました。
本書の終章に「なぜ私たちは死ぬのか」という文章があったのでシェアします。
昔の生物は死ななかった。でも、私たちヒトは必ず死ぬ。どうしてだろうか。なぜ昔の生物は死ななかったのかというと、細菌かそれに似た生物しかいなかったからだ。好適な環境にいれば、細胞分裂を続けながら永遠に生き続けることができる。
とりあえず細菌が生まれたのを約40億年前とすれば、現在生きている細菌は約40億年のあいだ生き続けてきたことになる。つまり、細菌に寿命はないのだ。無限に細胞分裂を繰り返すことができるのだ。
ところが、わたしたちには寿命がある。最近、世界の多くの地域で、私たちの平均寿命は大幅に伸びた。その一方で、最大寿命はあまり伸びていない。最高齢の記録には不確実なものが多く、どこまでを事実と考えてよいのか難しいけれど、少なくともフランス人のジャンヌ・カルマン氏(女性、1997年没)が122歳まで生きたのは確実とされている。おおよそこの辺りが、私たちの寿命の上限と考えてよいだろう。いくら好適な環境で生きていても、永遠には生きられないのだ。
じつは、みんなが死なないで、いつまでも生きる方法がある。分裂しなければよいのだ。あるいは、子供をつくらなければいよいのだ。分裂したり子供をつくったりしなければ、個体数が増えないので、地球の定員を超えることはない。そして、みんなが、いつまでも永遠に生きることができる。
あなたや家族や友人や、さらに赤の他人も含めて、ヒトには寿命がなく、永遠に生きられるとしよう。その場合は、もちろん誰も子供はつくらない。それが最低限のお約束だ。子供をつくったら人口が増えてしまう。生きている人が死なないのだから、子供をつくり続けたら、いつかは地球の定員を超えてしまう。
しかし、生物が誕生し、生き続けるためには、自然淘汰が必要だ。自然淘汰が働くためには、死ぬ個体が必要だ。自然淘汰には、環境に合った個体を増やす力がある。しかし、なぜそういうことが起きるかというと、環境に合わない個体が死ぬからだ。
環境に合うとか合わないとかいうのは、相対的なものである。「より環境にあった個体が生き残る」ということは、「より環境に合っていない個体が死ぬ」ということなのだ。だから、自然淘汰が働き続けるためには、生物は死に続けなくてはならない。でも、死に続けても絶滅しないためには、分裂したり、子供をつくったりしなくてはならないのだ。
だから、もしも死なないで永遠に生き続ける可能性のある生物がいたら、その生物には自然淘汰が働かない。自然淘汰が働かなければ、周りの環境に合わせて進化することができない。暑くなっても寒くなっても、地面が隆起して山になっても、地面が沈降して海になっても、みんな同じ形のまま変化しなかったら…そんな生物は環境に適応できなくて、絶滅してしまうだろう。永遠に生きる可能性のある大腸菌だって、環境が悪くなれば死ぬのだから。
死ななくては、自然淘汰が働かない。そして、自然淘汰が働かなければ、生物は生まれない。つまり、死ななければ、生物は生まれなかったのだ。死ななければ、生物は、40億年間も生き続けることはできなかったのだ。「死」が生物を生み出した以上、生物は「死」と縁を切ることはできないのだろう。そういう意味では、進化とは残酷なものかもしれない。
まさに、逆説のオンパレードです。永遠に生き続けるためには、「死」が必要だとのこと。つまり、自然淘汰が働き、その時々の環境に適応した人類だけが生き残るということ。これは、企業も同じですね。企業も倒産があるからいいのだ、と言った人がいました。国営企業だと適者生存の原則が働かないですから。
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