『ひとつになりたい(…けど)離れたくない』
彼女と正式にお付き合いを始めてから三年が経とうとしていた。彼女とは小学一年生の頃に出会い、高三になった今まで十二年間、同じ学校に通う同級生でもあった。小六から中三までの間は、とある秘密を共有し合う仲間として親しくしていた。僕の方は小学生の頃から密かに彼女に思いを寄せていて、異性として意識していたけれど、当初、彼女の方は僕のことは秘密を理解してくれる唯一の友だちと思う程度で、恋愛の対象ではなかったと思う。しかし他の人たちには到底理解できない秘密の経験をしている人は彼女と僕しかおらず、つまり気持ちを分かち合いやすい僕のことを彼女はいつしか異性としても意識してくれるようになった。
その秘密の経験がなければ、僕はきっと彼女に意識してもらうこともなく、お付き合いなんてできなかったと思うから、時々煩わしく思えるその経験には感謝している。その秘密の経験というのは、僕と彼女の頭の中にそれぞれ住みつく亡き人の声が聞こえるというものだ。僕は小六で初めて夢精した朝から、生まれることのできなかった亡き兄・命汰朗(めいたろう)、母が考えていた名前は芽生太(めいた)の声が頭の中で聞こえるようになり、兄と会話できるようになった。彼女は小二の時、初潮を迎えると亡くなったお母さんの声が聞こえるようになったのだという。同じ経験をしている僕らが仲良くなるのに時間はかからなかった。
奥手な僕と正反対で、女の子と経験が豊富だという兄はあの手この手を使って、僕と彼女を早く恋人同士にしようとした。Hで口うるさい兄の声にうんざりする時もあったものの、友だちの少ない僕にとっては兄であると同時に友だちのような存在にもなり、姿なき兄の声に随分救われていたと思う。
おしゃべりな僕の兄と違って、彼女のお母さんの方は謙虚らしく、彼女が本当に助けを必要とする時しか声を出さないらしい。でも彼女の頭の中に彼女のお母さんが存在するのはたしかだったから、彼女と会っている時は、いつも二人きりというより、四人で過ごしている感覚になっていた。彼女のお母さんと僕の兄は頭の中でしか会話できないし、四人揃っておしゃべりしているわけではなかったけれど、見えない二人の存在も常に感じながら、彼女と過ごしていた。彼女も僕もそれが嫌ということはなく、むしろ心地良さを覚えていた。四人で過ごせることが当たり前になっていた。
偶然、彼女と僕は誕生日が同じで、9月12日だった。二人揃って十八歳を迎えた高三の秋、兄は僕にこんなことを言った。
「命多朗(めいたろう)…おまえもついに年齢的には大人になったんだから、いい加減、そろそろ彼女とHしたら?高三だっていうのに、手をつないでほっぺにキスするのがやっとって兄として、じれったいおまえらのことが心配だよ…。」
兄はいつもこんな風にさらっとHなことを言ってくる。
「余計なお世話だよ、お兄ちゃん。僕らには僕らのテンポっていうものがあって、このままの関係で満足してるんだから、ほっといてくれない?」
「おまえがそれで満足していたとしても、彼女の方はどうだろうね…。ほんとは寂しいと思ってるかもしれないし、それ以上のことを求めてたって不思議じゃないよ。」
「揺波(ゆりな)ちゃんはそんな子じゃないし。彼女の気持ちならよく分かってるつもりだよ。」
「あくまで理解してるつもりだろ?同じく声が聞こえる秘密の友だち同士だからって、あまり買いかぶらない方がいいぞ。どんなに分かり合えてると信じても、所詮他人同士なんだからさ…。大学は離れ離れになってしまうんだし、一緒にいられるうちに、心だけでなく身体もひとつになることを経験しておいた方がいいって。」
僕がどんなに弁解しても、兄は言い分を曲げなかった。
「気持ちが通じ合えてるんだから、身体なんてつながらなくても平気だよ。僕はHが大好きなお兄ちゃんとは違うんだから。」
「俺はたしかにHなことが好きだけど…性交したとしても、新たな命は作れない身だから、憧れてしまうんだよ。命を作れる可能性のある行為にね。」
兄は寂しそうにそんなことも言っていた。
強がったものの、キス以上のことに興味がないわけではなかった。大好きな彼女とひとつになりたい願望はもちろんあった。でも…お互いに口に出したことはないけれど、手をつないだり、ほっぺにキスしている時、彼女の中にはお母さんもいて、僕の中には兄もいると思うと、二人に見られている気がして、僕らは恥ずかしさもあったと思う。キスだけでもそんな感じになるのに、それ以上のことをして、その行為を覗かれてしまったら、彼女も僕もますます恥ずかしい思いをするだろう。
それからもうひとつ、気掛かりなことがあった。兄の声が聞こえるようになったばかりの頃、兄がこんなことを言っていたから…。「俺はきっと奥手なおまえのために存在するんだ。命多朗が童貞を卒業するまでは俺の声が聞こえるだろう。」って…。つまりそれって童貞ではなくなったら、兄と話せなくなる可能性があるってことで、僕の中から兄の声が消えてしまうことに怯えていた。たしかにうるさいと思う時もあるけれど、もう六年くらいずっと会話をしていて、兄の声が聞こえることが当たり前になっていたから、童貞を卒業することで兄を失ってしまうことが怖かった。僕は兄と離れたくなくなっていた。彼女だってもしかしたら、処女でなくなったら、お母さんの声が途切れてしまうことを恐れているだろう。つまり僕らはひとつになりたいと思いつつ、大事な声の主たちと離れたくないが故、キスより先に進めずにいたのだ。
「その気持ちも十分分かってるよ。命多朗、俺のことを大事に思ってくれてありがとう。俺だっておまえの中から消えて、おまえと話せなくなるかもしれないのはつらいよ。でもおまえが童貞じゃなくなったら、確実に消えるって神さまから告げられたわけでもないし、存在が消えるのはあくまで憶測なんだ。だから何も心配しないで、彼女と先に進みなよ。おまえらの行為の最中は覗いたりしない努力をするから、恥ずかしがることもないよ。」
高三の卒業間際、僕の心を見透かすように兄はそう言った。
「お兄ちゃん…ほんとにいっつも僕の心はお見通しみたいに、偉そうに言わないでよ。この六年間…ずっとお兄ちゃんに心も行動も全部覗かれて、うんざりしてたんだ。分かったよ、お兄ちゃんのことなんて構わないで、僕は僕の意志で彼女と前に進む努力をするよ。もうお兄ちゃんのことなんて、知らない。」
あまりにも兄から童貞卒業を何度も催促され、頭にきた僕は兄の声や存在が消えるかもしれないことなんて恐れず、兄のことは忘れて、一歩前に踏み出すことにした。兄離れして、彼女とひとつになろうと決心した。
高校を卒業した春休み…。新生活の準備に追われながらも、二人の時間を作り、初めて彼女と一夜を共にした。兄にうんざりしていた僕は兄の存在は一切忘れて、彼女の中にいるお母さんの存在も考えないようにして、彼女と二人きりで過ごせていると信じながら、彼女を抱いた。そして初めてひとつになった。
彼女が眠った後、僕はひとりで声を殺して泣いていた。彼女とひとつに結ばれて幸せなはずなのに、なぜか寂しい気持ちにも襲われて…。「お兄ちゃん」と話しかけても、一言も兄の声は聞こえなくなっていた。いたずら好きな兄のことだから、僕を驚かせてやろうと消えたフリをしているのかもしれないけど、いつもなら僕から話しかけなくても「やったな、命多朗。」、「おめでとう、命多朗。」って勝手に話しかけてくれるはずなのに、その声が聞こえなくなったことに不安を覚えていた。
「命…多朗…くん?」
そして泣き声に気づいたのか彼女が起きてしまった。
「ご、ごめん。起こしちゃった?」
「ううん…実は寝たフリしてただけで、眠れなかったの。」
「なんだ…そうだったんだ…。」
彼女の手を握って、しばらく沈黙していると
「私も…たぶん、命多朗くんと同じ気持ちだから、大丈夫だよ。ひとりじゃないから。」
彼女はそんなことを言って、突然、僕の身体にしがみついてきた。
「どうしたの?急に…。」
「私ね…命多朗くんとひとつになれることをずっと望んでいたし、結ばれた今夜はとても幸せな気持ちなんだけど…声が…お母さんの存在が消えてしまった気がして、寂しいの。」
彼女は堪えていた涙を溢れさせながら呟いた。そして僕は彼女の身体を抱きしめながら言った。
「そっか…揺波ちゃんもやっぱりそうだったんだね…。僕も同じだよ。こんなに幸せなはずなのに、どこか寂しさが残って…。僕も…兄の声が聞こえなくなってしまったんだ。あの声にうんざりしていたし、消えても平気なんて思ってたんだけど、でもやっぱり寂しくて…。ごめん、きみがこんなに側にいてくれるのに、寂しいなんて思ってしまって…。」
「私も…もう大人だし、お母さんの声が聞こえなくなっても平気って思ってたんだけど、全然平気じゃなかった。命多朗くんが抱きしめてくれても、母を失った寂しさは拭えないの。ごめんね…でもこんな気持ち、分かってくれるのは、同じく大切な存在を失った命多朗くんしかいないから、甘えてしまって…。」
ひとつに結ばれて幸せの絶頂にいるはずの僕らは、それによって喪失してしまった大切な声の主たちを思い出しつつ、抱き合いながら、泣いていた。
大学が離れてしまい彼女と遠距離恋愛になった僕は、六年間も頭の中にいたはずの兄に相変わらず話しかけていた。話しかけても返事はないけれど…。
「お兄ちゃんと出会った時、小六だった僕は大学生になったよ。彼女と結ばれて童貞も卒業したよ。初めて夢精した朝に言ってくれたみたいに、一言、おめでとうくらい言ってくれてもいいじゃない?お兄ちゃんがずっと僕に言い続けていたことが僕にもできたんだからさ…。お兄ちゃん、ねぇ芽生太お兄ちゃん、命汰朗お兄ちゃん、何か言ってよ。命多朗ってまた話しかけてよ…。何でもいいから、命令してよ。うんざりするくらいおしゃべりしてよ…。」
どんなに話しかけても一言も声が返ってくることはなかった。
兄の声が聞こえていた六年間はまるで夢だったのではないかと思えた。僕しか聞こえていない声だし、他に誰も知らないし、本当に兄は僕の中に存在したのだろうか。童貞を卒業すると同時に兄からも卒業した僕はうっとおしい兄の声が聞こえなくなり、やっと自由にひとりで生きられるようになったというのに、なぜか寂しさが拭えなかった。こんなに寂しいということは、やっぱり兄は僕の中に存在したのだろう。兄が消えた世界を生きる僕は自由を手に入れた分、孤独だった。聞こえなくなった兄の声を忘れないように、何度も兄の声を頭の中で反芻していた。何度も聞いた兄の声をなぞりながら、兄の温もりを思い出し、兄がいた宝石みたいにきらめく時間を心に刻んでいた。返事はなくても何度も、何度でも兄の名前を呼んだ。一度も見ることのできなかった兄の姿を思い浮かべながら、僕は自分の吐いたため息を撫でていた。兄の声がまた聞きたい。お兄ちゃんに会いたい…。
処女を喪失した彼女の方も母を喪失した寂しさを拭えずにいた。僕らは互いに消せない寂しさを抱えたまま、会えた時は身体を求め合い、抱き合っていた。大学生活には慣れても、大切な存在を失くした寂しさにはなかなか慣れなかった。けれど声の主が消えてから一年以上過ぎ、少しずつ傷の癒えつつあった僕らが揃って二十歳の誕生日を迎え、小旅行していた時のこと…。
「ねぇ、あのお店、ちょっと良さげだから入ってみない?」
彼女が見つけた小さな古本屋に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」と出迎えてくれた人は彼女によく似た感じの女性だった。
「えっ…?おかあ…さん…?」
その女性を見ると彼女は目の色を変えた。
「はじめまして。私は店主の加護帆七海(かごほなみ)と申します。」
その人は彼女のお母さんと同姓同名だったけれど、揺波ちゃんのことは知らない様子で、初対面のように挨拶した。その後、奥から現れたのは…。
「いらっしゃいませ。私は息吹芽生太(いぶきめいた)です。命多朗、いつか会えると信じて待ってたぞ。」
聞き馴染みのあるその声は僕の兄だった。会いたかったお兄ちゃんの姿を僕はその時初めて見ることができた。
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