【第13話】3年冬、チームの離脱、悔やまれる1ヶ月
どうも、川瀬です。
もう6月になってしまいました。時の流れが早すぎて焦ってしまいますね。
前回は箱根駅伝予選会が終わり、駅伝主将になった後、上手くいったこと・いかなかったことについて書きました。今回は3年目の冬季についてです。
2年の冬から3年の冬にかけて10000mの自己ベストは31'08から30'10と約1分伸びました。これは1年間の走力の伸びもあると思いますが、ようやく5000mのような感覚で10000mのレースを走れるようになったことが大きかったと思います。というのもこの時期からポイント練習の余裕度が上がりました。2年生はポイント練習の後半はもがいて走り切っていましたが、3年生になりポイント練習の最後まで自分のコントロール(動きやペース、周りへの意識など)できるようになりました。
これは慣れもありますが、ジョグができるようになったことが大きい気がします。練習のための練習になっていますが、基本走力の大事さを身に染みて感じた時期でした。
その身体の感覚で2月守谷ハーフに出場します。しかしタイムは66'16。
2年の予選会20kmが63'04。3年の予選会20kmが62'38。
ハーフの方が1.0975km長いので大体3'15〜20足せばいいわけだと考えると、予選会の方が速いわけです。なかなかうまくは行きません。
まだまだハーフの距離には対応できませんでした。しかしタイムこそ変わらないものの序盤の余裕度やハーフマラソンのレース展開をなんとなく掴め、また後半の失速で自分の課題も整理できた試合ではありました。
それでもタイムは良くなく焦ってしまった僕は試合後休むことなく走り続け、2月末、中足骨の疲労骨折をし、3月末まで休むことに。。。
チームとしても丸亀、守谷共にハーフマラソンであまりいい結果は残せませんでした。
怪我した僕はバイクを中心にひたすら心肺を追い込み続け、またトレーナーに指導を仰ぎながら片足スクワットなどでハーフマラソンで感じた課題解決に取り組みます。
そして時の流れはあっという間で怪我から1カ月が経ち、ついに練習に復帰します。4年生というラストイヤーが始まる1週間前でした。
戻ったチームはチームとして機能していなかった。。。
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・振り返り
3年目の冬季は陸上競技場が使えず、と言っても冬季練習で走り込まないわけにはいきませんし、肉体強化もしていきたい、、、弘山さんとひたすら練習メニューについて悩み話し合った記憶があります。
また陸上競技場じゃない場所を走ることが増え、弘山さんに走っている姿を見てもらえるのが単純計算でも400mに1回だったのが、ロードだと1kmに1回や、クロカンだと700mに1回に落ちます。しかもロードコースには木があったり、クロカンは見晴らしが悪かったり。
そのため弘山さんと一人ひとりランニングフォーム面での面談を提案し、開催もしました。この試み自体は良かったのですが当時練習メニューを一番に話し合っていた自分が練習から抜けてしまいました。
また怪我により自分の競技には冷静になれやるべきことが見えてきましたが、チームのことは一緒に練習できないことで見えなくなってしまいました。ただ練習はできているようだし、同期や下級生もしっかりしているし大丈夫だろうと考えていました。今考ええると職務放棄ですよね。
出来ないことは出来ないとちゃんと伝えないと周りも困るわけなんですよ。自分はチームのことが見えていないと伝えられず、同期や後輩たちもチーム内で歯車が噛み合わなくなっていることを僕に伝えられませんでした。
そして練習に復帰した時に猿橋に言われた
「やっと川瀬さんが戻ってきてくれた」の一言。
さてこんな状態で始まる4年目のシーズンです。次回はシーズンインから書きます。個人のこととチームのことを書こうとするのでごっちゃになりそうな記事が続いているので分かりにくいところがあればぜひ教えてください。
冬季は写真が少ないですね笑
次回からは写真多めになるのでお楽しみに!!
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