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世界モデル(国スケール)

はじめに

国と国というスケールの動きを捉えるためのやや抽象的なモデルについて、少し考えを進めておきたい。
この星の上で今現在起こっていることや過去に起こったこと、将来起こりそうなことを考えるための準備のひとつである。(2014.9.15)

モデルに出てくるロール

この分野では未だ先人達の仕事を辿っていないので、ここで提示するのは政治学などの緒の緒の緒という程度の話かもしれない。とはいえ言葉にすることによって深まることも多々あるので、普段頭の中で用いている世界の理[ことわり]を考えるための道具をモデルという形で書下ろしてみようと思う。ごく簡単なものだが図も付しておく。

ここに登場する多くは意志を持つ擬人化された主[ぬし]達で、国と国とのダイナミックな動きをその行動原理や動機の観点から理解するために存在している。

ということで、まずは名前を付けるところから取り掛ってみよう。

モデルに登場する中心となるロールはそれほど多くはない。古くから使われていて色が付き過ぎている漢語(知の言葉)を避けて和語(情の言葉)を意識して見繕ってみる。選んだ言葉は観たり考えたりする際にイデオロギーに対してできるだけ中立となるようにしたつもりだ。

まずはメインキャストであるが、国[くに]・縄張[なわばり]・政[まつりごと]が揃い踏みで登場する。

次に脇を固める、輩[ともがら]長[おさ]の登場となる。脇役だが実はとても重要な役である。

最後を飾るのが民[たみ]となるのだが、民は残念ながら理由があって主役にはなれない。

なお、輩や民というのは個人の集まりなので、その中の特定/不特定の個人を指す場合には「~の人」と呼ぶときもある。また、輩[ともがら]に関連して「中枢」や「非中枢」という言葉なども重要なのだが、このあたりになると漢語でも致し方なしとなる。

国[くに]・縄張[なわばり]・政[まつりごと]

国は人工的なニュアンスを強調するなら「国家」と呼ぶことも多いが、ここでは人格的側面を強調するために「国」という言葉を使う。

国をヒトに例えるならば「身体」が国土・領土であり、「心」に対比できそうなものが主権となろう。主権は統治・支配する権力のことだから、このモデルでは政[まつりごと]が担うものとしている。

国は、国土あるいは領海・領空・領土というものの境界として地理的な線引きによって示される縄張[なわばり]を主張する。この縄張の中にある水・空気・食糧・鉱物・エネルギーなどの資源や労働力・購買力・生産力などの分布によって国の身体能力が決まってくる。それは国の経済力や軍事力という形になって表れる。

人種、民族、言語、宗教、歴史、文化、習俗、階層、信条などの違いで区別されるぼんやりとした境界というものがあるが、厄介なことに大抵の縄張はこの境界とは一致していない。深いレベルで見ると、こうした不一致がイマココで起こっている様々な出来事を引き起こし物語を生み出していることが分かる。

ここでは立ち入らないがより大きな構造についても触れておく。
国と国のレベルでは個々の国の縄張は温存したまま、より大きな縄張が形成される/形成しようとするケースも多い。曰く、同盟、連合、連盟、協力機構などなどである。

特に、太古から近現代に至るまで拡大されてきた「経済圏」の重要性は昨今、頓に高まっている。経済圏は一国の縄張というより国と国との交流・交易活動から生み出されるものなので国から見ると「場」のようなものにも見える。だが、重力場における質量が場を歪めるのと同様に、国は場である経済圏に影響を及ぼす。これは特に最近では「地政学リスク」という言葉が経済活動において強く意識されていることからも分かるだろう。

縄張を考える上で現代において無視できないものにサイバースペースがある。これも国の縄張というよりは何か別の種類の主体との関係で見ていかねばならないものなので、ここでは暫定的だが一種の場のようなものとして捉えておくに留める。

国の身体を決める縄張の次は、国の心の部分を担う政[まつりごと]の話をしておこう。

政[まつりごと]とは、国を統治・支配する行為、およびその集団や機関、機構のことを指す概念である。必然的に国の意志・動機の源泉となる。ここでは政府や立法府はもちろん司法や軍なども含めて政[まつりごと]と呼んでおく。古くは祭祀を司る機構も政治機構とは別に存在する時代もあったようだが、それらも機構におけるセクションの一つとして捉え全体でひとつの政[まつりごと]として考えていく。

もちろん政が成立しているのはパワー、すなわち希少資源のひとつである権力というもののお蔭であり、その実体は突き詰めれば大抵の場合、物理的力、つまり暴力に行き当たる。

個々の国はそれぞれ確かに歴史的・地理的な特殊性があるものの、主体としての行動原理や動機について言えば実はとても似通っている。
大きくなろうとする国、なった国ほど、面子や威信、あるいは更なる覇権を求める。

縄張や政を守るために安寧を求める国は、必要最低限の交易は行うものの干渉されないよう立ち回る。

いずれにしろ国というものは、国益というごく単純で本能的な欲求を満たすために駆け引きする主体、主[ぬし]として捉えられるのだが、ここで間違ってはならないのが、国[くに]の意志というものは後ほど登場する民[たみ]の意志ではなく、あくまでも政[まつりごと]の意志であることだ。

輩[ともがら]・長[おさ]

ひとつの国の政[まつりごと]の内部や周辺には、閥、族、党派、勢力などとも呼ばれる、輩[ともがら]というものが存在している。軍や政治機構の一つのセクションなども輩になりえる。輩[ともがら]は人の集団であり境界が曖昧なものも多いのだが、ある時点を見ると大概は色分けや識別することが可能である。

ある時点の政[まつりごと]の内外・近傍では、大抵がひとつの「中枢」と複数の「非中枢」の輩[ともがら]が蠢いている。

「中枢」というのは国の意思決定や判断をする集団・機関を指すもので、ここでは公式な統治機構がどのようになっているかというよりは、政[まつりごと]に対して実質的に最大の影響力を持っている輩[ともがら]そのもののことを言う。

いつの時代でも利権を貪る族[やから]と呼びたくなるようなもいるが、ここでは好悪・善悪などから離れていることを強調するためにそれらも含めて輩[ともがら]と呼んでおく。

それぞれの輩[ともがら]は時に分裂したり融合したり手を取り合ったり重なり合ったりして政[まつりごと]の中で中枢の座を掛けた椅子取りゲームを演じ続けている。

このスケールでは、それぞれの輩[ともがら]において(名目的なものではなく)実質的な長[おさ]が大きな影響力を持っていることが多い。長[おさ]というのは輩[ともがら]を代表する一人の人であり個人である。
実際のところ、長が輩を生み出したのか輩が長を生み出したのかは意外と不分明だったりするのだが、ここでは大きな問題ではない。
輩が中枢の座を狙うのは時や場所によらないほぼ普遍的な動きである。同様に「輩の人」というのも必ずしも名目上の長の座は求めないかもしれないが、実質的な長になるべく振舞うのも普通の動きだ。
こうした輩[ともがら]や長[おさ]においては、大義や富や権力、同朋や仲間や身内など各自が信奉し守るべき目的があり、それに対する「欲」が動機を形作る原動力になっている。しかし、上述のように中枢や長の座そのものが目的化されることは頻繁に見受けられ、目的と手段とが混同され入れ替わることも多い。

一旦、ある輩[ともがら]が政[まつりごと]の中枢の座を得ると、それまでのゲームのルールを自らに都合のよいようにお手盛りで改変することも可能となる。これは長[おさ]においても同じである。こうしたメカニズムによって権力はさらに集中する。
このように希少資源である権力は中枢や長に集中的に傾斜配分されるため、権力そのものを信奉する場合は目的と手段とが一致することになり、とても分かり易い。
しかし現実の世界では単純に権力だけを信奉することは極めて稀であって、そこには少なくともイデオロギーというものがあり、それぞれの大義が存在している。このように国レベルでも輩レベルでも不安定ながらも複数の多様な大義が並立している図柄こそが、この世界の真の姿ではないだろうか。

民[たみ]

民[たみ]は本来は主役となるべき存在なのだが、必ずしもそうはなっていない。このモデルの中では最も得体の知れない集団であって、総体としての行動原理や動機というものがはっきりしないことがその理由である。("mob rule"などとも言われる「衆愚政治」という言葉は好みではないが得心することはある)

民にはもちろん意志を持った個々の人の集団という実体があるのは間違いないのだが、国をヒトに例えた場合には民は身体でも心でもあるような、ないような不思議なものだったりする。民というのはひょっとすると幻想なのかもしれないと思ってしまうぐらいだ。

民を少し詳しく見てみると、何らかのカテゴリによって区分けされる様々な集団が見えてくる。区分けに用いられるカテゴリの例としては、人種・民族・言語や宗教、しかも細分化された宗教、あるいは歴史・文化・習俗・階層・信条などが挙げられる。どのカテゴリに着目すべきかはこのモデルを用いる際の時代や場所によって異なる。

個人である「民の人」と上述のなんらかの集団は、強弱はあるものの結びついている。従って、民[たみ]はカテゴリをレイヤとした集団の分布図を何枚も重ねた重層的な分布図という絵姿として描き出される。

別の視点から眺めてみよう。

まず「ファジィな所属」という考え方を導入しておかねばならない。ファジィ集合やファジィ論理という分野では、ある集合に要素が属するかどうかは0か1かという二者択一ではなくたとえばパーセンテージで表される。この考えに基づくと「ファジィな所属」とは、たとえば七割方こちらのコミュニティに所属するが二割ぐらいはそちらのコミュニティで一割ほどはあちらというような所属の仕方のこととなる。確かに現実はそうなっていることが多い。

ある時点において「民の人」、つまり個人において各カテゴリにおける区分けされた集団へのファジィな所属が決まってくる。言い換えると、民の人は人種・民族・言語・宗教などの個々の属性のひとつにおいて、複数の集団に対して所属しているかどうかを示す、あるファジィな値を持つことになる。それは複数の集団に対して重ね合わせの状態で所属していることを意味する。

こうした一人の民の人におけるカテゴリごとの所属の重ね合わせがそのまま民のレベルでも重ね合わせの状態となり、かくして、民は重合的に色分けされることとなる。これを実際の地図の上に描くと必ずしも国の縄張とは一致しない模様が出来上がる。

こうした重合的な色合いを持つ民[たみ]の中から先ほどの輩[ともがら]/長[おさ]が生まれてくることはなんら不思議なことではない。先にも触れたとおり、ある時代のある場所では着目されるカテゴリが異なるのだが、大概は何かその時代や地域における問題に即した単純な構図になるものである。こうして選び出されたカテゴリにおける民[たみ]の各集団が際立ってくるとそこから輩[ともがら]が湧き立つ。

その過程で民(の一部)が輩を、やはりファジィであるが、信頼し支持するという関係が生じる。そこでは長[おさ]の存在、およびその影響が大きな因子となる場合も多い。

逆に輩[ともがら]や長[おさ]の側に立ってみると、他の輩とのパワーゲームに勝つためには民の信頼や支持を強め広げることが重要となり、そのために輩や長というものは民を「思う」。多くの場合、思いを示すために民に約束までする。

やがてゲームを勝ち抜き中枢の座を得た輩[ともがら]は政[まつりごと]を司ることとなる。こうなると民[たみ]を「力」で支配しようとしたりさらに「煽る」ことで操ろうとしたりする。もちろんこの間にも他の非中枢の輩の動きは続いているためそちらにも立ち向かわねばならない。政[まつりごと]とその中枢の輩[ともがら]は、日々、力や煽りを駆使し続ける。

このように政[まつりごと]は民[たみ]との関係を作り上げ維持するためにエネルギーを注ぎ続けることになるのだが、その過程で政は国およびその縄張を拡大しようとしたり、他の国の拡大に対抗するために保護しようとしたりすることが求められる。何故なら政の中枢となった輩[ともがら]が民[たみ]に約束してきたことを実現するためには多くの場合、他の国と向き合う必要があり国としての身体能力を高めなければならないからである。
政[まつりごと]が国益というものを持ち出す背景にはこのような構造が存在している。

ここで注意すべきは、政を担う輩や長が、国益や民意や大義を持ち出す際には、総体としての民を都合よく利用していることがほとんどだということである。輩や長の眼には、おそらく民は気まぐれな赤ん坊であるとともに経済合理的に活動する理知的で冷淡な大人としても映っているのだろう。そう考えると民の重合的な色合いに気遣いながら力や煽りによって操ろうとするのはごく自然なこととなる。

おわりに

ある一時点の国[くに]の意志や動機、あるいは判断は政[まつりごと]のそれであり、それはまた中枢の輩[ともがら]、さらにはその実質的な長[おさ]の意志、動機、判断であったりする。

実際の、あるいは歴史上の世界の動きにこの世界モデルを当て嵌めようとすると、輩[ともがら]の情報が足りないことが多い。しかしここを抑えないとなかなか世界における国と国との関わりや動きの理[ことわり]を見通すことはできない。

ここで示した世界モデルは、人類の短い歴史を概観しながら紡ぎ出したモデルであり、まだまだ粗削りなところも多い。冒頭にも述べたがこのようなスケールで見た世界モデルは、先人達がすでに提示していたり実際の分析の道具として用いているはずだ。

我が知ポタにおいて、またこの分野に立ち寄り世界モデルを進化させるには、他の立ち寄りの場合と同じく先達の仕事の学びということも大事な作業となるだろう。そうしないと四角い車輪を発明してしまうことになりかねない。

最近では、欧州におけるイギリスとスコットランドやロシアと東欧の問題、中東ではイスラム国、また中国と東アジア諸国に加えて目覚めそうな巨像インドなどのニュースがお茶の間にも届いている。少し目を凝らすとアフリカや南米などもいろいろ動いていたりする。もちろん我がイマココの中心である日本そのものの動きなど、いずれも近現代史の視点なくしては語れないものばかりであり、時間軸に沿ったダイナミックな動きを捉えなければ理解することさえできない。

そうした世界の動きを考えるときの道具として、この世界モデルが少しでも役に立つと幸いである。

先般取り上げたルワンダの大虐殺や September 11 のような殺戮、あるいは第二次世界大戦のような愚行による大量殺人という暴力から人類が自由になる日がきっと来ると信じて、筆を置く。

あっ、キーボードから指を離す、でした。

#知ポタ  

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  一   広本 治

移設元

https://www.facebook.com/HIROMOTO.Osamu/posts/866619463432633

1945年(昭和20年)って私が生まれるほんの13年前だったりする。

日本では、沖縄の「慰霊の日」(6月23日)あたりから始まり、

ポツダム宣言(7月26日:アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、蒋介石 中華民国主席の署名、ソ連は後から対日参戦時に追認)による日本への無条件降伏の勧告と当時のマスコミによる「笑止」扱いや公式の「黙殺」、

アメリカ軍によるヒロシマ(8月6日:広島へのウラン型原子爆弾投下)・ナガサキ(8月9日:長崎へのプルトニウム型原子爆弾投下、当初目標は小倉だった)、

ナガサキの直前8月9日未明にはソビエト連邦が日本への攻撃開始(日本への宣戦布告は8月8日夕刻)、

8月15日に日本はポツダム宣言受諾を発表、すなわち軍の無条件降伏/敗戦(8月15日正午)、

その半月後に日本は連合国とのポツダム宣言の履行を含む短い「降伏文書」に署名(9月2日)

という第二次世界大戦の最後を迎えたこの時期、様々な行事などを通して「戦争」を思い出さねばならない季節でもある。
 
そんな折ではあるものの沖縄は石垣島で海も陸も楽しんで来たところですが、そのときの宿の庭にサバニ船があり、海人(ウミンチュー)あるいは島人(シマンチュー)、さらには島嶼国である日本の民は、その昔、夜には星を頼りに東南アジアの海の上を渡っていたんだろうなぁと、頭上の白鳥座を見ながら思ったものです。
 
そして東京に帰ってきていろいろなニュースに接していると、国と国との戦争って今でもあるし、過去のWW IIを含む汚点も忘れてはならないし、戦後70年程度の時間では人類は未だ処理しきれていない、その程度の叡智なのかなと少し悲観的になるものの、暴力のない平和な動的平衡を実現する世界に向けての希望は持ち続けていたい。
 
戦争終結に向けての日本の近くだけでも世界モデルの観点で見ると民は不在だったりする。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=709497885811459&set=a.279630998798152.62600.100002537611882&type=1&permPage=1
 
#知ポタ
 
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https://www.facebook.com/HIROMOTO.Osamu/posts/694626367298611

イマココ(今現在の日本)

「戦争」について、この夏は日本も加害者の立場からももっと深堀りして発信すべし語り継ぐべしという声が少なからず聞こえてきた気がする。まあ裏取りが甘くて叩かれたりしているところもあるようだが人間の基本姿勢として戦争における加害者という側面は認識しておいた方がよいはず。チェンジ・ロール(役割交換)ができるのがヒトなのだから。

だけどそうした話題そのものが8月もお盆過ぎると遠のくのもまた日本だったりする。もちろん年中やって馴化・鈍化してしまうことに比べればこの移ろいには意味がある。

ということもあり今日の知ポタのイマココものでは「戦争」に付き物の「虐殺」、特に「大量虐殺」(genocide)を取り上げてみようと思う。

ちなみに日本は平和憲法に抵触する可能性があるということで、大量虐殺(集団殺害)を防止したりするジェノサイド条約には入っていない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89

うーん、そもそも知ポタ(知のポタリング)では対称性がキーである量子や宇宙あたりから、生命や進化、そしてヒト、ヒトの脳、さらに意識というところをブラブラしながら、ヒトの集まりである社会からイマココ(今現在の日本)に向かおうかなとぼんやりと考えていたのだけど、まぁ少し先を覗いてからまた出直せばいいか。

そもそもポタリングなので気ままなもんです。あっ、プロフィール(基本データ > 詳細情報)などでも声高に宣言しているようにフリンジ・サイエンスやプロト・サイエンスなんかは苦手なので避けるようにしています。
知ポタついでに最近のイマココもんの寄り道についてちょっと振り返っておこうっと。

現在の日本を見つめるには逆に少し馴染みの薄い世界の方が多少普遍的に捉えられるかとも思い、ちょっと前に中東についておさらいした。
https://www.facebook.com/HIROMOTO.Osamu/posts/675238769237371

またその少し前のイマココ・ネタでは平和と暴力についても触れた。
https://www.facebook.com/HIROMOTO.Osamu/posts/670205503074031

こんな風に迫害、紛争、戦争、虐殺というような「暴力」が大きな顔をしている理不尽で不条理な世の中であることも現実だったりする。

で、こうした暴力を生み出す機構のようなものが洗脳や教育も含めて煽る行為じゃないかなということに思い至り昨今よく耳にする「ヘイトスピーチ」について触れてみた。なんか「煽られる」対象が存在するから「煽る」輩[やから]が出てくるような気もする。
https://www.facebook.com/HIROMOTO.Osamu/posts/688946477866600


【ルワンダ虐殺】

さて、直近の大量虐殺といえば、中央アフリカのルワンダ虐殺(1994年)を思い出す人も多いだろう。今年は2014年。ほんの20年ぐらい前の紛れもない現実である。

ルワンダという国はキリマンジャロの西にある大きなビクトリア湖のさらに西、中央アフリカの小さな国だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80

標高1500mぐらいで土地は痩せている。この小国ルワンダで僅か3か月の間に100万人規模の殺戮が行われたという信じられない話で、今から10年ぐらい前に映画にもなったりして話題になっていた。

次の「ルワンダの大虐殺」などはざっとした流れが掴みやすい。
もちろん、いつものように感情的な言葉に煽られないように注意しながら読む必要がある。
http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/works/works_8_m.html

当時のルワンダでは、フツ族とツチ族が互いに争うように仕向けられていったことはまず間違いないだろう。この二つの部族はもともと同一言語を話していたほぼ同じ系統の民族だったようだ。(顔立ちなどに違いがあったという話もあり人種的にどうかは不勉強のためよく分からない)

少数だが遊牧を生業として富裕であり政治的・経済的に支配層を成していたツチ族と痩せた土地で農耕を生業とする貧しい多数のフチ族。

第一次世界大戦の前後で植民地として当時のいわゆる列強がこうした部族間の差異を人種差別を煽るようにして利用し始めた。後にナチスがしたこととも似ていたりする。
(あまり話題にはならなかったけどマイノリティの狩猟民トワ族(ピグミー系)もかなり犠牲になったらしい)
「ルワンダ紛争」:ハム仮説からフツ・パワー、やがて「ルワンダ虐殺」に至る
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E7%B4%9B%E4%BA%89

こうした流れからはルワンダ虐殺に「煽り[あおり]」が使われたであろうことも読み取れるはずだ。

ここで取り上げたルワンダ虐殺は人類の汚点とも言える悲惨な現実の一つ、しかも僅か20年ほど前の出来事である。ほぼ単一民族といってもよい日本人(もちろん民族としてはアイヌ・琉球や韓国・朝鮮の人達、最近では多様な国の人達なども含まれる)にはピンとこないかもしれない。

しかし8月の日本というイマココでの「平和」や真逆である「暴力」を考えるときに、暴力の代表格である「大量虐殺」の一例を知っておくことは大事だと思う。

このあとは、スケールを国と国や国と民というレベルに置いた際のやや抽象的なモデルについて、ちょっとだけ考えてみる予定。

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