闇があればこそ、光は眩く感じられる。
昨日の記事を書いた時は熱かったけれど、今は少しセンチメンタルな気分になっています。
たまたま4年前の自分のnote(別アカウント)を発見したので、いくつか記事を読んで、過去を振り返りました。たった4年前と言えばそうなのだけど、この4年で色々な変化があったし、「そうだ、こんなことあったなぁ」と懐かしかったです。
また、久々に地元の通学路を通る機会があって、「毎朝この工場で働くおじさんに挨拶してたな」とか、「家から3分で学校に着くからってしょっちゅう宿題忘れて『放課後持ってきまーす』なんて先生に言って再登校してたな」「ここに住んでた〇〇ちゃんや〇〇くんは元気かな」なんて、他愛もないことを思い出していました。
「帰ってきたよ〜」と友人と連絡を取ったり、地元を歩いたり、家族と長い時間を過ごしたり…そうやって生活しているうちに、ポジティブなこともネガティブなことも、この地・この家にはたくさんあった、ということがぶわぁっと思い出されたんです。
自分の過去の軌跡を感じて「私辛いことがあっても頑張って生きてきたね」と誇らしく思ったし、同時に「恵まれている部分がたくさんあった」と思いました。
周りに知り合いがいない生活を1年半していたからこそ、今、慣れ親しんだ大切な人や地に触れて心が解けていくような感覚です。“当たり前のもの”なんて本当はないはずなのに、“当たり前に日常にある”と捉えられるものがこんなにもたくさんある。その分だけ恵まれているということだと感じました。
そういうモードになっているからか、普段全く意識をしていないことや些細なことまで、ありがたいことだな、恵まれていることだな、と気付かされます。
暗闇の中にいるような時、悲しくて仕方ない時、寂しくて仕方ない時があっても、その分だけ光を感じられる自分になっているんだなと実感しています。その分の光が私を、あなたを待っています。
そして、真っ暗闇を歩いている最中でも、いつでも自分の中に灯っている光の明るさ・ぬくもりを感じることはできるはず。その灯火が消え掛かってしまうことはあるかもしれない。見失ってしまうこともあるかもしれない。でも、完全に消えることはないし、いつでも自分の中心にその光・愛は存在しています。
Hiromi.