はなぶさ日記:英 弘美の過去と今
皆さん、おはこんばんにちは。
英です!
今日は記念すべき(?)第10本目の投稿ということもあり、作品ではなく、僕自身についてお話しさせて頂こうと思います。
初めてご覧頂く方も、これを機に英という人間について少しでも興味を持って頂けると嬉しいです。
で、す、が。
正直言って、あまり明るい内容ではありません。
こういった記事が苦手な方もいらっしゃるかと思いますので、「あ、ダメだ」と思った方は、途中で閉じるボタンを押してください。
また、ショートショートでお会いしましょう☺︎
(本当は最後まで読んでほしいけど!)
では本題へ参りましょう!
1.初めての社会人生活
僕は福岡県出身です。
博多じゃん!都会じゃん!と、思われましたか?
いえいえ、僕の住んでいる所はめちゃくちゃ田舎です。
周りを見渡せば、山、海、田んぼ。
どが付くほどの田舎です。
それ故、都会への憧れがありました。
なので、就活では東京勤務を目指して取り組んでいました。
そして、大学4年の6月8日午前8時、1本の電話で目が覚めました。
出ると、相手は第1志望だったメーカーの人事でした。
「受けてくれる?」と言う人事に対し、ふたつ返事で快諾。
入社後、研修期間に営業職として東京配属が言い渡され、田舎者だった僕は、その日から都会人になりました。
本採用後は1ヶ月間の研修を経て実務へ移行。
憧れの東京で営業活動。
僕の目は生き生きしていたと思います。
しかし、それも束の間でした。
慣れない地、上手くいかない営業、対照的にメキメキと成果を出す同僚。
周りには出来て、自分には出来ない。
焦りと不安で心は疲弊し、どんどん自分らしさを失っていきました。
先輩からフォローを頂くも、当時の僕にはネガティブに捉えることしか出来ませんでした。
そして1年目の最後には、課長から「回らない歯車」の烙印を押されました。
そして2年目になると眠れない生活が始まりました。
その次は食欲不振。
当時65キロあった体重は、1ヶ月で54キロまで落ちました。
朝は通勤中の電車で涙を流す日々が続き、さすがに病院へ行こうと思いました。
(今思えば、かろうじてその判断が出来る精神状態だった事に感謝です)
すると病院では驚くべき診断が下されました。
2.医師の診断
初めて足を運んだ精神科。
なぜか落ち着いていたことを覚えています。
問診票を書き、ヒアリングを行い、医師に下されたのは次の病名でした。
「これは、鬱ですね」
医師の話はこれに留まりませんでした。
「問診とヒアリングから判断するに、原因は不注意優勢型ADHD※だと思いますよ」
(※ADHD:注意欠如・多動性障害。忘れ物が多い、ミスを連発する、じっと出来ない、会話を被せてしまうなどの特徴を持つ精神疾患。不注意優勢型は多動性障害が現れないADHDの事)
何が何だか分からない様子の僕を見て、担当医は説明してくださいました。
「これは発達障害の一種です。社会人デビューなど、環境の変化によって大人になってから発見されるケースもあるんですよ。」
発達障害。
この言葉は僕を奈落の底へ落とすと同時に、光を当ててくれました。
障害という言葉は重く感じましたが、自分が仕事を上手くこなせないのはきちんとした原因があるのだと知り、涙が抑えられませんでした。
(障害を悪いものとして捉えている訳ではございません。あくまでショックだった事実を伝える為この様な表現をしています。気に触られ方がいらっしゃいましたら大変申し訳ございません。)
そして医師は続けます。
「ショックかとは思いますが、ADHDは障害と言うより個性に近いです。特性を五角形のグラフ表すと、多くの方が平均的なのに対し、ADHDの方は凸凹しているようなイメージです。なので裏を返せば、他の方にとっては苦手な事が、ADHDの方は物凄く得意だったりもします」
この言葉には本当に救われました。
会社勤めは向いていないかもしれないけれど、僕にも出来る事がある。
いや、僕にしか出来ない事があるかもしれない。
そう思えました。
3.僕に出来ること
ひとまず会社へ診断書を提出して休職を頂き、僕は地元で療養する事にしました。
そして考えました。
僕に出来ること、いや、僕が本当にやりたいことは何か。
そこで、東京にいる頃、ある本を読んだ時の事を思い出しました。
その本は、疲弊した僕の心に安らぎと感動を与えてくれました。
(何の本かは別の記事で書きたいと思います)
そして思いました。
僕も本を書きたい。
中学生のとある作文コンクールで金賞を受賞した事もあり、文章を書くことは好きな方でした。
(大した賞ではないですが笑)
しかし、順当に大学まで進み、無事社会人になれた今を捨ててまでやることなのかと悩みました。
そんな時、父が僕に言ってくれました。
「無事に帰って来てくれてよかった。仕事なら辞めてもいい。お前が本当にやりたい事をやれ。」と。
大学に進学する際、夢がなかった僕は、父とある約束をしていました。
それは、【大学で人脈を作り、やりたい事を見つける】というものです。
そういった経緯もあり、情けない気持ちでいっぱいになった僕は、ここでも泣いてしまいました。
母には「生きてくれれば何でもいい」と鬱の僕を優しく肯定してくれました。
こうして、今僕は福岡の病院に通院しながら治療を続けています。
そして、時間があれば物語を書く為のネタ集め、空想、他のクリエイターさん達の作品での勉強を繰り返し、それらをヒントに毎日筆をとっています。
4.最後に
これらの経験で、やはり健康が1番大事だと改めて気付きました。
そして、人生は1度きり。
自分が本気になれるものを若いうちに見つけられて本当によかったなと思います。
この夢は必ず叶えます。
その暁には、またnoteで報告したいと思います。
そしてもし、今この記事を読んでいる方の中で、過去の僕と同じ状況の方がいらっしゃいましたら、1人で悩まずに誰かに頼ったり、相談する事をお勧めします。
もちろん病院へ行くのも選択肢の1つです。
自分語りが長くなりましたが、最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
僕は今、新たな自分、英 弘美として生きていくために日々邁進しています。
そして、このnoteという街で色んな方と繋がり、夢実現のため更に精進していきます。
皆さん、どうぞこれからも英 弘美を宜しくお願い致します☺︎