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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑬疎開脱出

《 疎開脱出 》

 鹿教湯温泉街の入り口に、毎朝午前10時ころに上田駅からのバスが来た。その時間、子供たちはみんなバス停に集まって自分の親が来てくれないかと待っていた。僕も同じように毎日バス停へ行き、バスから降りる人を見ていた。
 その日やっと、親父みたいな人がバスから出て来て、近づいてきたら、たしかに親父だった。嬉しくて駆け寄りたかったけれど、その時僕にその体力は残ってなかったんだ。嬉しいのに座ったきり動けなくて、親父のことをひたすらジーっと見てたんだ。
 親父は一瞬こっち見たけれど通り過ぎちゃって。でも、僕があまりにも見ているから、気になったようでまたこっちを見てくれた。
 自分を見ているひどく痩せた子供。近づくと骨と皮で目がギョロっとしている。おまけに全身シラミだらけ。恐る恐る親父が聞いてきた。
「おまえ、功か…?」
 僕は、ただコクンとうなずいた。
 親父はひどく驚いて、
「うわー!これじゃぁ大変だ。中岡さんの言ったとおりだ。これじゃすぐ死んじまうぞ!」
って。それですぐに東京へ連れて帰ると言ってくれた。僕は、
「なら、校長先生のところへ行って」
と、親父の手を引いて校長のいる寮まで連れて行った。
 
「どうしても連れて帰りたい。見てください、こんなに痩せてしまって。このままでは死んでしまいます」と、親父がいくら懇願しても、
校長先生は首を横にふり、
「東京へは帰せません。東京にいたら空襲でそれこそすぐに死んでしまう。縁故疎開で田舎の安全なところに行くなら許します」
 校長は断固として東京に帰る事を許さなかった。親父は仕方なく、
「なんとかするから、頑張って待ってるんだぞ」と、一度阿佐ヶ谷に帰った。

 そうは言ったものの、親父は家に帰り一人困り果てていた。親父もお袋も東京生まれで田舎に親類縁者はいない。思わず、
「あー困った! あー困った!」と、叫んでしまっていた。
 それを聞いたお袋が、どうしたことかとたずねてきて、親父はやっと僕のことを教えた。
 お袋も驚いて慌てたものの、一度、冷静に、冷静に、と考えて、ふと思いついた。
「誰かうちの土地を借りている人で、田舎で生まれた人はいないかしら? その人に頼んでみてはどうかしら?」
と、お袋が言った。すると、多川さんと言う人が福島から来ていた人だとわかった。その人に拝むようにして事情を話した。
「息子の疎開する先を決めなきゃいけない。どうか、おたく様の田舎に連れていってもいいと言う一筆を、書いてはいただけないでしょうか?」と、頼んだ。そうしたら、
「困ったときはお互い様だ」
と、福島に僕を連れて引っ越すと言う、一筆を書いてもらえた。
 そしてまた国鉄の友達に切符を取ってもらい、ふたたび鹿教湯温泉へ向かった。
 
 今度こそ僕をむかえに来てくれた。縁故疎開の証書をみせて、やっと校長からの許可がおり、僕は東京に帰れることになった。
 汽車は毎日は走ってなかったので、汽車が来る日まで近くのお寺で親父と何日か一緒に過ごして、1945年(昭和20年)8月4日の朝、ようやく駅に向かった。
 しかし、ホームにやってきた汽車は超満員。ドアが開いても人で埋まっていてとても乗れる状況じゃなかった。親父は窓から車内の人に、
「子供だけでも乗せてくれ!」と僕一人を押し込めた。すると後ろにいた人が、
「息子さんじゃ、親が付いてなきゃだめだ」
と、親父の首を持ったり、服をつかんだりしてなんとか窓から車内に引っ張り上げてくれた。汽車の中は人で埋まっていて座るところもない。人で詰まってまったく動けない状態だった。だけど、
「これで東京へ帰れる」と親父はとても安堵していた。
 汽車は走ったり止まったり、時間をかけてやっと阿佐ヶ谷に着いた。

 阿佐ヶ谷駅は、あたり一面が焼け野原となっていた。

                          つづく

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