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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉖ギブミーチョコレート・危険な食料

《 ギブミーチョコレート 》

 終戦後しばらくすると阿佐ヶ谷にも進駐軍って言って日本を統治し始めたアメリカ軍がよくやってきた。アメリカ軍のことをヤンキーと呼んでいた。  
 ヤンキーたちはジープに乗って青梅街道沿いをよく通っていた。子供たちはジープ見つけると「ギブミーチョコレート」って叫びながら追いかけた。そうすると止まってくれたから、大勢の子供が群がった。
 ヤンキーはお菓子をいっぱい持っていた。ちゃんと一人一人に行き渡るだけのお菓子を気前よくくれて、配り終えるとまた走り去った。
 ちょっと前は敵で「鬼畜米兵、死ねー!」って、藁人形を作って必死に刺してたけど、子供たちは切り替えが早かった。チョコレートの他にもガム、キャンディー、クラッカーとか色々と種類もあって、ホイホイとくれた。ぜんぜん鬼畜なんかじゃなかった。いい人たちだった。
 それもアメリカ軍の日本の子供たちをお菓子で手なずけるって言う作戦だったらしいけど、食糧難でみんなお腹を空かしている時にそんな美味しいものをくれるんだから、子供たちは喜んでいた。

《 危険な食料 》

 闇市ではなんでも売っていたけれど、危険な食べ物も多かった。砂糖は出回っていなかったし、あっても値段が高くて買えなかった。だから安い代用品を使っていた。ズルチンとかサッカリンって言って、砂糖の何百倍も甘い。ほんの少し1㎜くらいをなめただけでものすごい甘さだった。お袋は闇市で小豆を買ってきてサッカリンで味付けをしていた。ほんのちょっと入れるだけで甘いお汁粉が出来た。お汁粉と言っても今と違って小豆の少ない薄いお汁粉だけど当時としては御馳走だった。
 そのうちズルチンで中毒患者が出るようになってすぐに禁止された。サッカリンも体に害を与えるとして、あとから使用禁止になった。

 屋台もあって、いい匂いがしておいしそうだった。立ち食いしている人も多かったけれど、親父もお袋も「ばったもんだから」って、絶対に食べさせてくれなかった。何が入っているか分からないからって。
 「残飯シチュー」って言われて、米軍の残飯を煮込んで出してるって言う ウワサがあった。本当に美味しそうではあったんだけど。
 
 それとお酒。闇市のアルコールは飲むアルコールではなくて、もっと安い工業用のアルコールを水で薄めて出しているところもあった。密造酒って言って何で作っているかわからないお酒も。親父はお酒が好きだったけれど、闇市のお酒は信用していなかった。実際に闇市のお酒を飲んで体を壊したり、失明した人もずいぶんいたんだ。

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