ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑩なんでも食べた・先生たち
《 なんでも食べた 》
僕たちが疎開したのは、長野県上田市丸子町の鹿教湯(かけゆ)と言う温泉町。出発前に親父が「温泉町なら田舎なら安心だ。田舎なら食べ物はいっぱいあるだろうし」なんて話していたけれど、実際は全く違った。
畑や田んぼも沢山あって収穫も豊かだったけれど、そこで収穫される作物のほとんんどが、戦地で日本のために戦っている兵隊さんへ物資として送られるものだった。
作っている農家だって取り締まりが厳しく満足に食料がなかった。そこに1,000人近くの学童疎開の御一行が来たのだから、食料不足になるのは当たり前だった。
とにかく食べ物がなくて、腹が減って仕方がなかった。ちょうど5月に実を付けるサクランボみたいな小さい実がなっていて、その木に上級生が登って揺らして、落とした実をみんな群がって食べた。その実はとっても美味しかった。
誰かが道端の低い草に付いているの実のようなものを食べた。周りにいる子はその子の反応をジーっと見てる。それで大丈夫そうなら、
「なんだ、食えるのか」なんて言ってみんなマネして食べた。自由時間になると、道に出て食べ物をさがした。道と言っても、どこも砂利道で、あるのは雑草ばかりだったけど、美味しくなくても何か口に入れて少しでも空腹を満たしたいと思っていた。
バス停でバスを待っている人たちがいなくなると、急いでベンチまで走って行った。たまに乗客がバスを待っている間に食べたサツマイモやミカンの皮を捨てて行くことがあったから。今なら生ゴミのそんなものさえも僕たちにとっては御馳走だった。
宿舎になっている旅館から歩いて30分くらいのところに学校があった。歩いて通ってた。学校のすぐそばに小川が流れていて、色々な生き物がいた。そこにカニもいた。石を動かすと小さなカニが出てきて、それを急いで捕まえて食べた。生のまま食べた。最初は食べられるか心配だったけど、これも一人が食べると、これも「なんだ、食べられるんだ」と、みんながマネしてして食べた。早くしないと上級生に取られてしまうので、捕まえたら他の子に見られないように急いて食べた。
こんなふうになんでも食べちゃっていたから、みんなよく下痢をした。お腹を下した子にはご飯は与えられず、お湯のようなお粥にされてしまう。
だから僕はさらに痩せていった。
《 先生たち 》
疎開先では親からの手紙や、差し入れお菓子などの食べ物が送られてくるのがとても楽しみだった。けれど、差し入れは先生がみんな取っちゃった。
僕のお袋も時々お菓子を送ってきてくれた。お菓子と言ってもまんじゅうとか焼き菓子とか、手作りのお菓子。だけど先生が、
「これを一度にたくさん食べるとお腹をこわすからね、三時のおやつにみんなに配ります」
と、取り上げられた。そしてみんなを並ばせて、手のひらにちょこんと、ほんの少しだけみんなに配ったんだ。
でね、夜になったら先生と寮母さんたちは、大騒ぎしながらそれを食べていた。
「うははー」
って、笑いながら、親たちが子供にって送ってきたお菓子を食べていた。大人が食べちゃってた。みんなさ、そーっとのぞきに行ってさ。眠れないの。のぞくとテーブルにはいっぱいに親から送られてきた手作りのお菓子があって、それを食べてて。
眠れなかった。
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?