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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉑取られてしまったケヤキの森・阿佐谷囃子 

《 取られてしまったケヤキの森 》

 前にも書いたように、僕のうちはたくさんのケヤキの木の囲まれていて「横山の森」と言われていた。ケヤキは戦争中、僕の家を隠してB29から守ってくれた。夕方になると怖くて歩けないほどの森で、ちょうちんを持って歩いても怖いほどだった。
 しかし終戦直後、そのケヤキの森は強制的に国に伐採されてしまった。
 空襲で東京中が燃えたので、家を建てる木材が足りなくなった。そのため、町に残っている木は全部持ってこいって、政府が命令した。
「嫌だ」
なんて言ってられなかった。いきなり大勢の人がやってきて、うちのケヤキを根こそぎ切り倒して、大きなトラックでどんどん持って行ってしまった。 それも木材になるような太くて立派な木ばかりを持って行った。うちのケヤキはどれも立派だったのでみんな切られてしまい、残ったのは細い1本だけだった。他の家のケヤキはまだまだ細くて木材に向かないから、持っていかれなかった。
 今、阿佐ヶ谷にある大きなケヤキはその時小さかったものが成長してたもの。今でも残っている家があって、その家を見る度に、あのケヤキの森が残ってくれてたらなぁと思っている。

《 阿佐谷囃子 》

 親父は阿佐ヶ谷囃子って言うお囃子の会の長をしていて、祭りになると神社のやぐらの上で太鼓を叩いたり、笛を吹いたり、色んな楽器を使ってお囃子を演奏していた。正月には獅子舞や、おかめとひょっとこに扮装した囃子連中と近所の家を一軒ずつまわっていた。
 その練習場が僕の家だったので、家の中はいつも囃子連中に占領され、みんなこたつの端などを叩いてリズムを取って曲を覚えていた。
 お囃子は楽譜がないから、実際に楽器を弾くか、「テンツクテンツク、テテンツク」とか言って口調で覚えるか、ものを叩いてリズムとるか、音に出さないとどうにもならないので、とにかくに賑やかだった。

 親父は近所の人から「お頭」と呼ばれていた。それがうちの屋号。昔はその集落に特徴あるひとを区別するように屋号と呼ばれるニックネーム的なものがあった。
  いつも練習と酒盛りがセットで、夜になると、
「お頭、お頭」って、人が集まった。お袋も人が来るのが好きだったので、
「いらっしゃい、いらっしゃい」ってもてなしていた。
 仲の良い八百屋の金作おじさんとは、なぜかしょっちゅう喧嘩して、
「お前のとこなんざ、二度と来るか!」
「おう、上等だ。もう二度と来るな!」
なんて言ってても、3日もするとまた仲良く一緒に飲んでた。
 
 戦争中はこの練習がなかったので、僕のうちはよけいにガランとして、音がなく、さみしかった。終戦と同時に練習もすこしずつ復活して、また活気を取りもどした。
 
でも、僕が学校の試験勉強をするようになってから、この毎日に迷惑感が出てきたんだ。
 新習い(しんならい)が来ると、頑張ってずーっと遅くまで練習していたし。それから、練習後のみんなの大騒ぎも困った。僕が勉強している横でテンツクテンツクと酔っぱらいながら賑やかに演奏が始まるので、ホトホト嫌になってノイローゼみたくなった時があった。
 その日もテンツクテンツクの音で勉強に集中できなかった。囃子連中は練習が終わって、みんな大酒を飲んで笑っていた。堪忍袋の緒が切れてしまって、口では言えないので酒を沸かしているやかんに、ナイフで穴をあけた。
 囃子連中がそろそろ酒のわく頃だと思ったら、やかんに穴が空いていたのでびっくりして。お袋が恐る恐る、
「穴を空けたの功ちゃん?」って聞くから、
「そうだよ」って答えた。
 それから少し静かになった。でも僕は、それを申し訳なかったなぁと、今でも後悔しているんだけど。

お囃子連中と親父(右)
家で練習している親父

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