見出し画像

ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑮戦後の爆弾遊び・金属探し

《 戦後の爆弾遊び 》

 戦争が終わって、大きな開放感があった。
 もう空襲もないし、自由に走り回っても軍人に怒鳴られることもない。
 嬉しくて嬉しくて、僕は友達に会いに学校へ行った。
 校庭には、焼夷弾の燃えカスや、日本の兵隊がいた時の鉄砲の弾なんかがいっぱい落ちていた。

 学校も半分燃えてしまって、遊ぶは具はなにもなから、みんなそれを拾って遊んでいた。
 中には火薬が入っているのもあったから、その火薬を取り出してマッチで火をつけて、バーっと燃えるのを見て楽しんだりしていた。
 でも、それはものすごく危険な遊びだった。
 そのうち火薬遊びの爆発で、指が何本もふき飛ばされる事故が相次いだ。
 それから大人たちは、
「絶対に爆弾にはさわるな!」
と、言うようになった。
 でも、「ダメ」と言われたらやりたくなるのが子供ってもんだ。

 大人たちは、戦争に負けたショックで、ただ茫然としているだけ。
 片付けられない。
 小学校は軍が駐屯していたまま燃えカス状態になっていた。

 それをいいことに、子供たちは杉七の校庭に置いたままになっていた、使い物にならない高射砲を持って、
「ダダダダー!」
って、打つマネをして遊んでいた。
 校庭には鉄砲の弾だとか、武器の残骸、破片だとかがそこら中に落ちていたから、火薬以外でも、手足を切ったりと怪我をする子供が出始めた。

 大人たちは、それでようやく慌てて片付け始めた。

 火災で半分になった校舎の床は、ベニヤで補修されていた。
 歩いていたら、そのベニヤに穴が空いて足を怪我する子もいた。
 それでやっと、
「新しい校舎を作ろう」
って、動きも始まった。

《 金属探し 》

 駅の南側には川端通りという商店街が今でもある。
 そこもぜんぶ焼けちゃって、焼け野原と言うものが残った。
 すると子供たちは焼け野原で遊ぶようになった。
 そこには色々と落ちていて面白かった。
 川端通りにはタイル屋があったので、色々なタイルがいっぱい落ちていた。僕もカッコいいタイルを拾っては喜んでいた。
 
 そのうち、子供たちは焼け野原で金属のものを探しはじめた。
 なんでかって言うと、
 日本は大砲や軍艦とか、戦争で金属のほとんどを使っちゃったから、金属が全く無くなっていた。
 お寺の金まで没収されていたんだから。
 だけど、復興するにはどうしても金属が必要だった。

 区役所の近くにクズ屋があって、そこで金属を集めていて、
「なにか金属のものを拾って来れば買ってやるから持ってこい」
と、近所の子供にどんどん言いつけた。

「金属って何だ?」
って聞くと、
「釘とか電線とか何でも。
鉄とか、銅とか、真鍮(しんちゅう)。
鉄はあまり高く買えないけど、銅と真鍮ね。
銅は電線を作るのに使えるし、真鍮はね、
立派な金属だから、これは高く買ってやるから」
と、子供たちに宣伝したの。
    
 それで子供たちは焼け跡に金属を探しに行った。
 僕も一緒になって探した。
 銅と言ってもどういうものなのかわからないから、まずは上級生がやっているの見てた。
 そうすると、削ってみると赤くなるのが電線で、
 これが銅だってわかった。真鍮は削ると金色が出てくる。
 そう言う区別の仕方をだんだんと覚えた。
 その頃は戦争に負けてみんな貧乏で、お小遣いをくれる大人なんて誰もいなかった。
 
 金属探しは僕が中学校に行くまで続いた。
 みんな焼け跡に入っては拾っていたから、そのうちみんな拾われて、焼け跡じゃいくら掘っても何にも出なくなった。
 そうしたら、焼けていない家から金属を取る子が出てきて学校に苦情をいてくる人がいた。

「阿佐中の子に金属を取られました。見てください!」
と、先生に訴えた。なので朝礼で、
「金属を売っている子供がいましたけれど、
もう焼け跡には金属はありませんし、
まだ人が住んでいる家から取るのはやめなさい。
あれは迷惑をかけますから、絶対にやめるように」
と、生徒に言った。
 それでみんなの金属探しは終わった。
 
 そのうち日本の景気も少しずつ良くなってきて、きちんとしたアルバイトをしてお小遣いを稼げるようになった。
 納豆売りや新聞配達。
 今、新聞配達を子供がやっているのなんて全く見ないけれど、当時は子供たちがやっていた。

                            つづく

#太平洋戦争  #学童疎開 #戦後80年 #戦後79年  #鹿教湯温泉 #阿佐ヶ谷 #終戦 #特攻隊 #空襲 #B29 #戦争 #昭和 #エッセイ #小説  #昭和100年 #WW2 #WWII


いいなと思ったら応援しよう!