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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)④上野動物園・小学校と学童疎開

《 上野動物園 》

 僕がまだ小学校に上がる前の年、1943年(昭和18年)8月に、空襲で動物園が攻撃されて猛獣が檻から逃げたら大変なことになるから、今後動物たちを殺してゆくと都が決めた。
 お袋は、それならば今のうちに見に行っておこうと、背中に弟をおぶって僕を上野動物園まで連れて行ってくれたんだ。

 上野駅から外に出ると、ほとんど歩いている人がいなかった。動物園の入り口まで行ってみたけれど、閉まっていて園には入れなかった。ただ、「クーン、クーン」と、動物たちが悲しそうな声で泣いていた。それだけが聞こえた。
 後からその動物たちは殺されたと聞いた。 周りがやけに煙っぽかったので、きっと殺された動物たちが燃やされていたんだろう。
 お袋が「ごめんね」と言って、背中で泣いている弟をゆすってあやした。べつにお袋が悪いわけでもないし、動物たちも何も悪くないのに。なんだか僕の方が申し訳ない気持ちになった。仕方なくそのまま家に帰った。
 
 その時はまだ東京に空襲はなかったんだ。遠いアメリカの戦闘機がまさか東京まで爆弾を運んで来るなんて、本当にできるのかなぁとも思っていた。 
 けれど日本軍はガダルカナル島で敗北して、アッツ島では全滅、みんな玉砕。アメリカ軍は南太平洋に着々と日本への中継地点を増やして、東京へと近づいてきていたんだ。
 

《 小学校と学童疎開 》

 僕が入った小学校は杉並第七小学校、通称、杉七。でもその頃は「杉並第七国民学校」。国民と付けたのは、子供たちも一人の小国民として戦争に勝つように頑張れっていうことで改名された。学校の体制は、天皇のために身も心もつくせって言う教育になっていた。
 
 僕が入学した1944年(昭和19年)は、日本が戦争に苦戦していた真っただ中だった。ラジオでは、玉砕と言う、戦争で死んだ、って意味の言葉も増えてきた。けれど、まだまだ戦争はこれからが勝負。どこそこでは戦艦なになにが敵機を撃墜している、敵の空母を撃沈。とか、国民を必死に煽っていた。
 校庭では一年生だった僕も軍事訓練とか国防訓練とか言って、竹やりや、長刀(なぎなた)の訓練をした。竹やりも自分たちで作ったんだ。ふつうの真竹の先を斜めにスパっと切ってとがらせて、その切り口を火で炙ると油が出てきてツルツルになり鋭くなった。 
 これを使って、敵がやってきたら刺し違えてでも突き刺せって。大きな藁人形に向かって「イヤー!」と一人ずつ刺す練習をした。
 刺し違えてでも、ってのは、たとえ自分が死んでも、相手をやっつけろってことで。今思うととんでもない教育だった。
 上級生は担架で人を運ぶ訓練とか、戦技訓練って言って、木銃を持って、行進したり打つ訓練をしていた。小さな軍隊のようだった。
  竹やり訓練なんて、敵は空から爆弾を落としてくるから、なんの意味もなかったけど、当時は先生も生徒も大真面目に真剣にやっていた。 
 教科書もそれまでは多色刷りの教科書だったけど、僕の学年の教科書は黒一色になって、紙不足で用意されない科目もあったから、借りたり貸したり、みんなで融通しあっていた。どんどんと生活が苦しくなりだしていた。

  その年、1944年(昭和19年)の6月に国がいよいよ戦局不利ってなって、空襲が予想される都市部に子供が生活することは極めて危険。として、学童の疎開を強化することを閣議で決めた。
 対象となったのは3年生から6年生。1、2年生は対象にはならなかった。理由は、低学年は朝起きてから便所に連れてゆく世話までしないといけないので、少人数の先生では手が回らないから。って、ことだった。
 
 そして2か月後の8月に3年生以上の殆どが田舎の親戚の家に避難する縁故疎開か、学校単位での集団疎開のどちらかに出発した。杉七の生徒たちは半分以下になった。

                                                                                                  つづく
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