見出し画像

63. 人、時折、記憶に生きる。

昨年がどうだったかは、もう定かではないのだけれども、
今年の冬は、少し暖かさが残っているように感じます。
12月に入り木々はようやく紅に染まっていってます。
きっと来年の5月くらいまで、寒さが続くのでしょう。

トータルリコールの映画版が配信リストにあがっているのを見かけました。
シュワちゃんが主演バージョンの吹き替えです。
子供の頃にTVで見たのですが、ほとんど記憶にありませんでした。
破廉恥には目を瞑り、グロは極力見ないような子供だったので、きっと
目と耳を塞いでみていたのでしょう。

時間や記憶に絡む作品では、ピーターパン症候群トゥルーマン・ショー妄想など、登場人物の感情や状態そのものを、特徴として捉える言葉が生まれています。

自分を超客観的な何かの存在における自分に位置付けたり、
感情に身を委ねすぎたりと、どれも一度は陥りそうなものにも見えます。

今は、意図的にそういったことは行えないですが、
記憶は、酒よりも良くも悪くも魔法の薬だと思います。
瞬間を生きる上で、自分の存在が危ぶまれたり、瞬間を疑ってしまう感情に対して、反射する光の速さで、「記憶」との比較が起こったことがあります。
みなさんもそう言ったことはないでしょうか。「あの頃は」「この日は」「何年前は」「OOだった時は」「OOをしていた時は」など。

「インセプション」や「レミニセンス」は、自分を肯定するものを、瞬間の中ですでに失われた、大切な人との過去の中に見出そうとしていきます。
「攻殻機動隊」や「銀河鉄道999」は機械の体を持ったこと、記憶や人格を外部に自由に行き来できるようになったことで、存在の否定にぶつかります。

ゲームがVRになり、より密に現実に近い遊びを提供するオープンワールドの実装など、遊びの自由度と、システムの壁は広がっていきます。
ですが、現状でも漫画やライトノベルのような現実に帰ってこれないというのは、擬似的には存在しているのだと思います。

なので、これがより広がることよりも、私は映画の中で見る大切な記憶の中から帰れなくなる方が、より危険に感じます。一種のタイムトラベル。

大人帝国・・・・・。

失った時間を、ゲームをするように取り戻せる、追体験できるなら、この瞬間というゲームソフトを抜いてもプレイをしたくなるのは完全否定はできません。

トータルリコールのシュワちゃん主演版では、様々な人種と、搾取に満ちた火星で、シュワちゃんが記憶を取り戻そうと奮闘します。
やっとの想いで導かれた先で首領であるミュータントのクアトーに
「記憶を取り戻してどうする?」と聞かれます。
「自分を取り戻したいから」とシュワちゃん。
「行動が自分を決めるのだ」とクアトーは諭します。

私は、ばちばちアクションのリメイクした映画の方も好きですが、こういった台詞回しや原作にあるエイリアンなど人種の話がしっかりある、シュワちゃんのムキムキ感も含め、こちらの方が好きだなと改めて思いました。
そういえば「天使のくれた時間」も、そう捉えることができるかもしれません。しかし、天使のくれた時間も、トータルリコールも最後は、記憶の中の自分や過去の選択の前にいる自分ではなく、
瞬間に生きる自分の選択に身を委ねていきます。

きっと、親にレアなカードや、名盤レコードをゴミ同然に捨てられてしまった時も、シュワちゃんの演じる主人公の生き様を思い出して、
私も、こうやって生きていきようと思った方がいいのかもしれませんね。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集