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文学の森殺人事件 第四話

 昼の一時に『文学の森』講座がはじまるので私たちは渋谷に向かった。道玄坂を登った先におしゃれなオフィスがあって、そこでワークショップが開催される。この日も、二階堂ゆみの受講を楽しみにしていた。
 受付を通った先に眼鏡を掛けた醜男がいた。
「大島、今日も来てたのか?」と私は言った。
「スコットさん、それに西園寺さんまで!」大島徹は嬉しそうだった。
「それで大島、小説の方はどうなんだ?」
「まだ書いていますよ。とはいえ、出版社から相手にされないのは慣れてますがね」
「本気でプロを目指しているなら諦めるなよ」
「諦めませんよ。私から小説を取ったら何も残りません」
「お前がプロデビューしたら一番のファンになってやる!」
「ありがとうございます! 秋田にいる両親も『お前の一番のファンだよ』と言ってくれています。故郷にいる友人や新しく東京で出来た友人を裏切ることはできません。十代の頃に追いかけた夢は中年になっても輝いて見えます」
 と大島は気持ちのいい笑顔で言った。

 大島は曇った眼鏡の先に何を見ていたのか分からないが、十代の頃からプロを目指して、出版社に投稿し続けるも、なかなか日の目を見ず、苦労していると笑いながら話した。私と大島は高円寺にある文学カフェで知り合った訳だが、彼の真摯な文学に対する思いと誠実な人柄(今の私には大島はそう映った)が気に入り、直ぐに意気投合した。苦労話ついでに夢の話をしたくなったので私は大島にこう言った、
「私の故郷のネブラスカ州にはエリオット・スミスという歌手がいて、一時期、私も彼のようなシンガーソングライターを目指していた。彼の歌う「ミス・ミザリー」は美しくて、心の琴線に触れた。だけどエリオット・スミスはもうこの世には存在していない。彼は重い鬱病で自ら死を選んだ。私は大粒の涙を流したよ」
「スコットさんが歌手って想像できませんね」
「私も想像したくはないがね」私は恥ずかしそうに言った。「大島と初めて会った時に年下にもしっかり敬語を使って、頭を下げていたのが印象深かった」
「スコットさんには年下でも敬語がでちゃいます」
「ところで二階堂先生とはどうだ?」
「実は二階堂先生は今とても忙しくて会わせてもらえません。なにせ、彼女は売れっ子作家ですからね」と大島は言った。
「ふむ」

 大島の曇った眼鏡の先は希望の光だけを見つめている訳ではなかった。彼は突然口調を変えて彼らしくない意外な一面を見せた。「以前、教えを請うた訳ですが、それでも一作家志望の私に付き合っている暇などないのでしょうね。新作を発表したばかりで売れ行きも好調らしいのですが、そのプロットについてネットで叩かれています。人の悪口は言いたくはないのですが、売れっ子作家になり、自分が一番でなくてはならないといけないというプレッシャーもあるのでしょう。あるいは小説講座を開いているのも、若い作家を育てているというよりむしろ、お金のためだと言う人もいます。売れっ子作家を一人残らず殺してやりたいと、真剣な表情で言うのは、幾ら何でも冗談だと思いたいです」
「あの優しそうな二階堂先生がですか?」と西園寺は言った。
「はい。ここだけの話ですよ。彼女は悪い噂には敏感ですから」
「大島は二階堂先生一本で行くつもりだろ?」
「一応、そのつもりです」
「だけど二階堂先生は売れっ子だし、不満があるのなら他の作家に弟子入りした方がいいのかもしれないな」
「いや、この受講が奇跡を呼ぶ気がするんです」大島徹は引き締まった表情で言った。けれども、突然踵を返すように言う彼の返事が意外に思えた。「もちろん努力はしますよ。自分に特別な才能がないのに気付いているからこそ努力して、今まで馬鹿にしてきた人間を見返してやりたいんです」
「よし! その意気だ!」
「ありがとうございます」
「でもな、大島」私は言った。「嫌な部分があるにせよ人の悪口は言うなよ!」
 大島は深く頭を下げた。「すみませんでした!」
「よし、それでこそ大島だ」
「スコットさんに出会えて良かった」大島徹は言った。「ところでスコットさんはやはりミステリーを?」
「本格推理ものだ」
「経験が活かされますものね」
「大島は以前は純文学で芥川賞を狙っていたんだっけ?」
「過去は過去。今は今ですよ」

 西園寺は私が生き生きとした表情で話すのを聞いていたが、突然、トイレに行くと言い残した。彼はトイレで担当編集の三木剛が何者かに怒鳴っているのに遭遇したとのことだ。恐らく編集部のミスを咎めていたのだろうが、西園寺は蛇のようにしつこく責め立てる口調に不快感を覚えた。以前、彼が口に出した「くさい」とは意味が違うが、同じ「くさい」でも彼には”何か"秘密があるのだろう。
 しばし時間が経ち、西園寺と合流すると我々は会場へと向かった。
 西園寺は私を置いて前列の席に座ると、窓際の席に長田春彦と倉田修二の二人組の姿があったのに驚いた。長田は明らかな不穏分子で怒声を浴びせていた張本人ではないかと疑問に思った。どうして長田はここにいるのだろうか? と首を傾げた。彼らはバッグに詰めた原稿用紙を取り出して、お互いの小説を講評し合った。
「副詞や受動態を繰り返すのは文章のリズムを崩すよ」
 と倉田修二は長田春彦に忠告した。
 私も話を聞いていた。

 長田はもう一度自分の原稿に目を通すと、明らかにおかしな言葉遣いや海外文学を真似た、癖のある文体について深く言及することはなかった。しかし、彼は友人の忠告を真剣に聞かなかった。あるいは長田は『文学の森』講座でも異色のタイプだった。彼の文章には特徴がある。しばし、長さ一ページ以上の長い文を書く傾向がある。文章の段落は改めず、引用符(「」や『』)は使わない。
 彼はガブリエル・ガルシア・マルケスやジョゼ・サラマーゴと言った海外の作家を手本としていた。

 倉田は分かり易くて読みやすい文章を心掛けていた。長田と倉田は文章の傾向や物語の世界観こそ違えど、互いの小説を評価し合っていた。彼らは良きライバルであり、戦友だった。
 もちろん、ミステリー作家とはいえ純文学も読むので、特定のジャンルにこだわる必要はない。小説講座に来る受講生も純文学から、ファンタジーまでさまざまなな書き手が存在する。

 しかし、一番端の席に座っていた立壁由紀という女性は違った。彼女は恋愛小説を書いていた。彼女の簡潔な文章は海外の作家からの影響は全く感じられない。村山由佳に憧れるあまり、彼女の文章を模範として、日本の作家しか読まずに(作家を目指すのならこちらの方が手っ取り早いだろう)執筆活動を続けていた。
 彼女もまた新人賞に応募していた。しかしプロの道は厳しかった。なかなか日の目を見ない。彼女と同じ席に座る名和田茜は親友だった。歳は二人とも二〇代前半ぐらいだろうか。
 昼の二時頃、受講生が席に座った。
 壇上に二階堂ゆみが上がった。
「書きたい小説のテーマ」
「プロットの作り方」
「登場人物の動かし方」
「小説の題材はどこから取るのか?」
 の四箇条をホワイトボードに書いた。二階堂ゆみは四〇代半ばに差し掛かっても、顔の皺はない美しい顔立ちをしていた。だが今日の彼女は顔色が悪かった。あるいは表向きはフレンドリーに接しているが、心のなかでは複雑に絡み合った糸を解すことが出来ずにいるのだろうか。そう思うのはなぜだろう? たとえば、彼女には焦りが感じられた。彼女の弱みを握っている人物がいると思うのは邪推だろうか? などと空想した。すると西園寺が私の横に座って、言葉を口にした。

「二階堂先生は体調がよろしくないようですね」
「どうも顔色が良くありませんね」
 二階堂ゆみは歯切れの悪い口調で話をした。体はふらふらで街中で会ったら思わず「大丈夫ですか」と声を掛けたくなる。私は彼女の青ざめた顔を見て、ただごとではないと思い声を掛けた。「二階堂先生、どうしたのですか?」
 しかし返事はない。
 彼女は正常な状態ではなかった。
「担架だ! 担架を呼んでこい!」
 誰かがそう叫んだ刹那に二階堂ゆみは気を失って、その場に倒れた。私は彼女の元に駆けつけて意識があるかどうか確認したが、心臓の鼓動は感じられず、嘔吐して、死亡していた。女性の大きな悲鳴の声が聞こえる。
 二階堂ゆみが壇上に上がって、数分後の出来事だった。

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