文学の森殺人事件 第七話
昼の四時に「文学の森」の二Fフロアに移動すると、著名なミステリー作家のディスプレイが展示してあった。江戸川乱歩、横溝正史、鮎川哲也、西村京太郎、など日本の推理小説の礎を築いた文豪の貴重な資料だ。彼らが生涯残した手紙、原稿、日記、作品などを紹介していた。特に目を引いたのは彼らの紹介映像だった。ミステリーに疎い人間でも興味を持って貰うために主催者が計画していたのだろう。あるいは文豪の残した軌跡を辿るのが狙いなのかもしれないが。
事件発生時、現場に残った人物は帰すわけにはいかなかった。犯人の可能性がある人物には片っ端から証言を聞いて、謎を解明するべく、一刻も早く先を急いだ。
二Fフロアで大島徹が涙を流していた。彼は本気で作家になれると思っていたのだ。だから尚更彼が気の毒に思えた。
「大島、悲しい気持ちは分かるが、気を落とすなよ」私は慰めた。
「私には、もう何もない」大島はかなり落胆していた。
「お前には小説が残っているだろ」
「二階堂先生を尊敬していたんだ。誰かに頼らなければプロの作家になれる才能が私にはない」
「困ったな」私は言った。「ほとんどの作家は自己流でプロになったんだがな。お前には学がないが、小説が好きなら頑張れよ! それに大島、現実を受け止められない気持ちは分かるが、メソメソしていても仕方がないだろう。お前もいい大人じゃないか」
「犯人が許せない!」大島徹は叫んだ。
「そうだな」
「罪の意識が足りないんだ」大島は言った。「殺人を犯す人間は最終的に自分の首を絞めることになるのを理解していない」
私と大島が堂々巡りの会話をしている間に、西園寺一が主催者の赤羽雄一引き連れてきた。赤羽は黒のスーツを着ていて、高級そうな革靴を履いていた。きっとお金持ちなのだろう。見た目は四十代後半ぐらいだ。かなり白髪が目立っていた。私は彼との関係性を訊ねた。
西園寺一は彼を紹介した。
「こちらは『文学の森』講座を主催した赤羽雄一さん」
「初めまして赤羽雄一です」
大島徹は驚いた目で赤羽を見た。
「おや? お知り合いですかな?」西園寺はわざとけむに巻いた。
「昔の文学仲間です」大島は言った。
「今は会社勤めで企画運営の方を主にやっています」赤羽雄一は言った。
「実は赤羽さんが大島さんと旧知の仲だと聞きつけて、大島さんに会うために二人同時に事情聴取をしたいと申し出ました。赤羽さんはミステリアスな雰囲気を持っています
が、実に気持ちのいい紳士です」と西園寺は社交辞令を言った。
「ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」赤羽は頭を下げた。「まさか殺人事件に居合わせるなんて思ってもみなかったので、動揺しているのが正直な感想です。また、主催者として責任の重さを痛感しております。『文学の森』講座の代表と致しましても警備不足を反省しています」
西園寺は黙って肯いた。
「事件の捜査の協力に尽力致しますので、最後まで宜しくお願いします」
「ところでワークショップに著名なミステリー作家のディスプレイを展示したのは、赤羽さんのご提案ですか?」と西園寺は言った。
「いえ、高橋みやびという新人が考えました。面白いアイデアだと思って採用しました」
「二階堂さんも一足先に見て回ったそうですね」
「ええ」赤羽は笑った。「彼女は特に江戸川乱歩に興味を持っていました」
「D坂の殺人事件が好きです」と私は言った。
「あれは名作ですよね」
「大島さんも現実が受け止められないでしょうが、どうか捜査のご協力をお願い致します」
「承知しました」大島は頭を下げた。
「あなたは事件発生前、どこにいましたか?」西園寺一は訊ねた。
「もう会場には着いていたと思いますけど、二階堂先生を罵倒する声が聞こえたので怒鳴ったのを覚えてます」
「怒鳴った?」
「はい」大島は言った。「まだ若い人だったと思います。しかしそれが誰か分からないんですよね。『千と千尋の神隠し』のカオナシみたいに存在感がないはずなのに、存在感がある人物だと思えて」
「面白い表現です」西園寺一は言った。「まだ影の人物は特定されていません。それにアリバイがないかもしれません。とはいえ、私たちはその人物にまだ証言を聞いていません。分からないのはその人物の単独犯だとは思えないのです。まだ現場に残って貰って、謎が解明したら、皆さんに集まって貰おうと思います」
「それはなぜですか?」
「他にも彼女に恨みを持っている人物がいて、彼は影武者のように容疑を被っている可能性があるからです」
「なるほど」私は言った。大島と赤羽の顔を同時に見た。大島の目は淀んでいて、赤羽は現実が受け止められない様子だ。二人とも全く別な表情を見せていた。
「私は、犯人が私利私欲で殺したのではないかと思っています」西園寺一は言った。「赤羽さんは事件発生前にオフィスにいた、と仰ってましたが、具体的に話を聞いても宜しいでしょうか?」
「パソコンで仕事をしていました。アガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』に関する記事をオフィスで書いていました。二階堂先生はクリスティを目標としていましたからね」
「なるほど」西園寺は言った。「大島さんは二階堂先生が亡くなる直前、彼女に毒薬が盛られているコーヒーを飲む前に、ホワイトボードに四箇条を書いているのを覚えていますか?]
「はい」大島は言った。
『書きたい小説のテーマ』
『プロットの作り方』
『登場人物の動かし方』
『小説の題材はどこから取るのか?』ですよね」
「素晴らしい」西園寺は拍手した。
「さきほど、話していましたが、その四箇条は事件に何か繋がりがあるのですか?」私は訊ねた。
「まだ私の口からは何とも言えません。実際に目ぼしい人物の証言を全て聞くまではパズルのピースは埋まらないということです」西園寺一は言った。「つまりまだ尻尾を出していない犯人の正体を炙り出さなければならないと言うことです」
「そしてその犯人はここにいる」
「その通りです」西園寺はニコリと笑った。
「少し聞きたいのですが」大島は臆病風に吹かされたように小声で訊ねた。「犯人は間違いなく『文学の森』に潜んでいて、次の獲物を狙ってる可能性もあるということですか?」
「さあ」西園寺はけむに巻いた。「でも安心してください。まだ私には貴重な証言を聞いていない人たちが残されています。密室空間で行われた殺人なので、長くはかからないと思われますが、最後に二階堂先生は素晴らしいヒントを教えてくれました」
「ヒント?」
「先ほど述べた四箇条のことです」
「なるほど」
「私は先ほど長田春彦という青年から実に興味深い話を聞きました。それは二階堂先生に恨みを持っている人物が何名か潜んでいるという情報です。もちろん長田さんもそのうちの一人です。彼は彼女が盗作をしていることが許せないと言っていました。私の独断と偏見では何も言えないのですが、赤羽さんはこの件についてどう思われますか?」
「彼女が盗作をしているのは悪い噂だと信じています」と赤羽は言った。
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