2021年1月1日
年が明けた。
昨日から今日へと、日が変わっただけなのに、「新年」という区切りを付与されて、その日は特別なものになる。昨年があまりにも世界的にあまりにもな状況だったためか、今年はさらに特別感が増しているように感じられる。
今この瞬間にも、コロナで苦しんでいる人とその治療に携わるたくさんの人たちは、新年どころではない時間を過ごしているはずだ。いつも通り何もない新年を迎えられた我が家は、たいへんに幸運なのだと思う。
たぶん、わたしは今鬱っぽい。
冬はだいたい沈むけれど、12月の末が命日になってしまったのがふたりになったことを知って以来、重苦しい気持ちが続いている。正月の晴天を見上げても、以前のように青空を吸い込んで身が清められるような気持ちにはならない。あの美しい空は、空気は、わたしとは無関係な高いところにある。
12月に亡くなったふたりが、きっと苦しく辛い気持ちでいたであろうこと、そうしてしまったのは他ならぬわたしなのだと、そればかりが頭から離れない。ずっと、それを引き受け続けること、その覚悟はできているが。
大晦日の15時ころに息子は帰ってきた。
栃木?だったかのイルミネーションを見て、口コミで評判のいい埼玉のホテルに泊まって、男5人でわちゃわちゃしてきたらしい。免許取り立てで車を運転したくて仕方ない友達と車があれば、まあそうなるだろう。青春を満喫している。
とにかく自分の好きなようにして欲しい。子どもに我慢を強いることだけはしたくない。我慢とか忍耐なんて害悪でしかない。限られた人生を楽しまなくてどうするんだ。苦しさが報われる保証はどこにもない。
祈る、ということを最近考える。
「演劇は祈りだ」これは、昨年に観た東京夜光『BLACKOUT』での台詞。
さっき、雑煮を作った。コロナで帰省ができなくて、すべて母にお任せの正月がお預けになってしまったので、仕方なく。大根と人参を千切りにしているとき、なんだかこれは祈りに似ているな、とふいに思った。
たぶん、誰かのために、それは特定の人物でなくてもいいし、殊更「ために」と思ったり、相手を念頭に置かなくてもいい、ただ自分以外の誰かにむけて、何かを行うこと。それはすべて祈りになるのではないか、そんな気がしたのだ。
家事も仕事も、それをすることが必要な誰かがいて、自分がそれをすることで、ひとつのかたちができあがる。あ、そう考えると別に「自分以外」でなくてもいいか、ひとり暮らしの家事でもなりたつ。
自分が生きていく上で必要なことをして、生かす、ということ。
祈りとは、生かすこと。かもしれない。
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