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寂しくて悲しい

いつもならそういう時に詩が出来たり短歌が出来たりする。そう、私小説ならぬ私詩、私短歌というわけ。じゃ「公」小説なんてものがあるのか?完全なフィクション、という意味だとしても、何かを作り出す人とその作品がその人の個人的体験や感情からまったくかけ離れているなんてことはあり得ない話だ。で、今回はどうして詩も短歌も出来ないのか、というと、それは寂しさと悲しさの度合いがあんまりにもあんまりだから、という至って単純な理由なのだった。
noteユーザー諸氏の主な年齢層がどの程度なのか知らないけれど、若い人が多そうな気はする、そうでなくてもとりあえず若い人にお知らせしておきたいことがある。いいですか、若い皆さん。歳を取っても心は、若い頃の続きなんですよ!身体は確実に歳を重ねて老いていき、え?これが本当にわたしなの?がびょーん!となるのに!心は自分の存在に気づいたあのときからずっと、ひと続きの自分なんですよ!
そんなの当たり前だろとお思いでしょうか。でもね、心身のアンバランスって思春期だけじゃない、青年期も更年期もそうなのです。いつだって身体はとっとと先に進んでいき、心はおたおたと後からついていくのです。
わたしも若い頃は、街で見かけるおばさんおじさんおばあさんおじいさんと自分とは全く別の生き物のように思っていた。年齢にそぐわないファッションや行動を見かけると、若作りしちゃって痛々しいな、と思ったりもした。だけど、自分がおばさんといわれる年齢になってみると、それは決して若く見せようとしているのではなく(実際そういう人もいるが)、身体の年齢に心が追い付いていないことに気付いていないのかもしれない、と思うようになった。着る服にしたって、何歳だからこういう服、じゃなく普通に今まで通りに好きなテイストの服を選んでしまいがちで、ある時ふと鏡を見て、あれれ?と思うのだ。
恋愛だってそうだ。わたしは世にいうバツイチで、なかなかに辛い体験もしたので、もう結婚なんてこりごりと思っていたのに、なんと今片思いの真っ最中である。それも、きっと恐らく奇跡でも起きない限り叶う見込みのない片思い。お前はまだそんなに辛い思いをしたいのかマジかマゾか、と日々突っ込む自分もいるのだが、姐さん、もうこれが人生最後の恋じゃき、という本気度合いでなかなかに辛い。あー辛い。そしてタイトルに戻る…
恋愛、とひとまとめにされているけれど、恋は欲求、愛は感情。ひたすらに相手を求めて乞うのが恋、相手を尊重して幸せを願うのが愛。そんなしゃらくさい定義などものともせずに「ポニョ、そうすけ、すきーーーっ!!!」ドンガラガッシャーン!!!と勢いに任せられた若さは尊かった。酸いも甘いも噛み分けるお年頃になってしまっては、相手のことを慮りながらも自分の残り時間も限られているし、という狭間で身動きが取れないまま、前にも後ろにも進めずにいるのだった。そしてタイトルに戻る…
ただ、その膠着状態の辛さ切なさが作品のネタまたはきっかけにもなっているので、万一この片思いが成就してしまったら、作品が生まれる余地が減ってしまうのだろうか。おうよ、幸せな詩?お前如きの幸せなんてなんぼのもんじゃい!とからむ自分は確実にいて、不幸で居続けることを自ら望んでいるような気にさせる。さらに、好きになった人から好かれた試しがない、という今までの経験に基づいた個人的法則が存在しており、これが相当に強力であることも輪をかけている。そしてタイトルに戻る…

※若い皆さんへ。夜中にこんなものを書いていると、堂々巡りの無限ループに陥ります。「夜に手紙を書いてはいけない、朝読むと恥ずかしくて死んでしまうから」という一例として、ここに置いておきます。

※ヘッダー画像は、2019年3月指輪ホテル『バタイユのバスローブ』公演にて、許可を得て撮影したものです。

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