身体観についての雑考 2018.1.11.

「この体は借りものだと思っているので・・・」
というフレーズを最近二度ほど口にした。

今の私にとって、この言葉の後ろには『幸運にもこの体をさずかって使う機会を与えられている』というニュアンスが含まれているのだけど、思い返せば20代の半ばまではまさにその借りもののような感覚-自分の体が自分のものでないようで現実感・生きている実感がないという悩みをもっていた。
それはいろんな条件と絡み合うことでやがて『生きている意味はあるのか?』となり、さらに『自分が生まれたこと自体がエラーだったのかもしれない』という確信めいた思い込みに発展し、どーのこーの、と続いてゆくのだけど、つまるところ胸を張って存分に生きたい欲求の反動であったと思われるその強烈な疎外感の呪縛から抜け出すのは本当に至難の業だった。ああいうのを自縄自縛って言うんだと思う。
今になって当時を振り返ると『変なの』と思う反面、未だ蘇る深い寂しさや悲しさは貴重な経験であったのも確かだ。
いずれにしろ卒論にするほど身体と死のファジーな関係性について考えこんだ時間は、物質主義に拘らない世界の捉え方を教えてくれた。さまざまな出来事や出会いによりいつの間にか私の内面は到底同一人物とは思えないほどに変遷し、今ではこのお借りした体は本当によくできてるな〜という感心しかしない。

自分の存在に対する不安や疑念を根本的に解決する鍵は自分の外側には存在しない。たとえばこの体が借りものだと感じることに疎外感を感じるか/喜びを感じるか。依存するか/自律するか。その分水嶺は、目に見えない自分の内側や目に見えない世界を信じて慈しめるかどうか、もっと言えば勇気を出してそれができるかどうかなのだと思う。

余談だが、『生きている意味』について考えるのは無駄だとは言わないがほどほどにしないと時間がもったいないので、それを思い煩うくらいなら自分が時間を忘れてしまうほど夢中になれる何かを貪欲に探すことに時間を使ったほうがいい、というのが個人的な反省から出た結論だ。もちろん、そこに喜びがあるなら生きている意味について考えることに人生を捧げる選択も素晴らしいと思う。

ところでなぜこんなふうに身体と自己存在の話をしているかというと、ルパート・サンダース監督の『Ghost In The Shell』(スカーレット・ヨハンソン主演の実写版攻殻機動隊)のことを思い出していたからだ。この作品と、ウォシャウスキー姉弟/トム・ティクヴァ監督の『Cloud Atlas』の2本のDVDを去年から小沼純一先生にお借りしたままになっていてようやくご返却できたところなのだけど(小沼先生ありがとうございました)、Cloud Atlasもとても興味深かったのでいつか機会があったら書きたいと思う。

生きている実感を失い、身体からも記憶からも解放された世界に憧れていた頃の私にとっては、(タナトスを昇華させてくれた)攻殻機動隊はある意味命の恩人とも言える作品だった。
そもそも既存の身体(や記憶)への執着が無意味になってゆく世界でヒト個人を個人と規定するものは何なのか問い直せるところがあの作品の個性であり魅力のひとつだと思っているのだけど、面白いことに、この実写版を観ていると逆に生身の身体の力を強く意識することになる。スカーレット・ヨハンソンが義体化(サイボーグ化)された少佐を見事に演じていて、その(生身の)身体能力の高さに観入った。つまり『義体化された少佐の身体』というより『鍛え上げられ少佐に寄せたスカーレット・ヨハンソンの身体』が印象的だった。
まだあの作品で描かれるような未来世界には到達していないため、現代社会においては『フィクションの域を出ない全身義体』と『現実である生身の身体』とのギャップはこの作品を実写化しようとすれば当然内在するわけで、世の攻殻ファンがこれをどう感じるかは気になるところではあるけれど、今ちょうど生身の身体を生身のまま活用することに意識が向いている私にとっては、サイボーグ特有の高度な身体能力を持つ『人間』である少佐の実写での見せ方が興味深かった。
原作や各種アニメ版とはまったく別の新しい攻殻機動隊だと思って観たのだけど、オマージュの幕の内弁当のような作品でもあるので攻殻ファンにとってはその画面ひとつひとつから監督の作品への愛を探るのも楽しいかもしれない。ちなみに荒巻課長のイメージは私の中ではもっと公安の人だったのだけど、北野武版荒巻は所作や雰囲気やすごみが完全にヤクザのそれで、映画が一部、さすがのキタノ・ワールドになっており思わず笑ってしまった。

スポーツ・武道にしろ、音楽や絵画などの芸術分野にしろ、本来、存分に駆使され高みを目指す身体への憧れは、単純な身体の高性能な義体化(サイボーグ化)のみでは満たされないはずだ。結局、自在にコントロールできるまでに洗練されてクリエイティビティが発揮されることが重要なのだと思う。さらに攻殻機動隊における登場人物の義体化に関して言えば、そこに共感し魅力だと感じ得るのは彼らが使命と哲学に基づいて義体化を選択しているからでもあるだろうけれど。
憧れの先に義体化があるともいえる。一対一で格闘する、跳ぶ、駆け上がる、歩く、etc.、それぞれ合理性を求められる度合いは違えど、関節に即した、人が持つ本来の必然性のある美しい動きがその延長線上で進化していく様にこそ、わくわくする。と、身体のサイボーグ化がもっと進んだ仮の未来のことを想像してみる。

一昨日の朝、45分間のフィットネスに行ってキックボクシングスタイルのワークアウトをして以来ずっと、けっこうな筋肉痛でつらい。

ここまで書いてなんだけど、死んだらどのみち身体からも記憶からも解放されるであろうし、急いでゴーストだけになり広大なネットの海を泳ぐよりは、この制限の多い身体をもっと活用したいと思う。以前はよく攻殻機動隊のような世界がきたら義体化したいと思っていたけれど、借りものの身体だとしても生きている実感がある今は、たとえそんな世界が到来しても、痛いのもだるいのも、鍛えたり上手く扱えるようになるのに時間がかかるのも込み込みで『生身がいいな』という気がしている。

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Hiroko Arakaki
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