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ビーハイヴはお好き?'60sイタリア一般女性のヘアスタイル図鑑
見てるだけで盛り上がれる恰好(かっこう)が、どうやら60年代ビーハイヴ・ヘアの系譜に連なってるらしいと分かってきました。46歳の春。笑
ビーハイヴって言うんですねえ。アレサ・フランクリン、ザ・ロネッツ、ジャクリーン・ケネディ、ブリジッド・バルドー、『ティファニーで朝食を』の黒のジバンシィのドレスのオードリー・ヘップバーンもビーハイヴでした。
ビーハイヴの義理の母。1965年頃 マテーラ
初めてザ・ビーハイヴが登場するのは’60年2月(米美容誌)で、『ティファニーで朝食を』が’61年の作品ですが、大西洋をひとっ飛びして、北伊トリノ、そしてマテーラでも60年代、市井の女性はこぞってビーハイヴだったそうです。
その模様を、(とても恐縮ですが)義理の母のイカした写真とともにお届けします。笑
義理の母はイタリア半島のかかとプーリア州の生まれですが、プーリアの商人の一家は、フィアットに代表される工業の成長が止まらない北伊トリノに上京*1。経済成長の追い風に乗り、稼業はなかなか上手くいったようです。
世界にビーハイヴがなかった50年代
フェイスラインのカットが攻めている義理の母
*1 実入りの少ない農業頼みの中部・南イタリアから新天地を求めて、1861年以降アメリカやドイツに、戦後の経済成長期には北伊にも働き手が大流出。フランシス F.コッポラも、ロバート・デ・ニーロも、マドンナも、レオナルド・ディカプリオも、レディ・ガガも、アリアナ・グランデも、ルーツは中部・南イタリア。ビーハイヴの生みの親マーガレット・ヴィンチ・ヘルツも南イタリアがルーツ。
というわけで義理の母は、田舎から出てきた、商人の家庭の、職業婦人として、パリから最先端のモードが直で届くトリノで、うきうきの青春を過ごしました。
1964年頃
ビーハイヴのアンナ叔母さん【左】と義理の母(29歳)【右】
1965年頃といえば、ロンドン発のBIBA、マリークヮントのミニスカート、ツイッギーのスィンギン旋風に、世界中のヤング達がしびれた時代。
義理の母の世代は、南イタリアの田舎のコンサバティブ至上主義(笑)と、たぶん他愛ない貴族階級への憧れもあって、断然、ディオール、イヴ・サン・ローランのパリが体現していたオートクチュール(高級・注文・仕立て)の世界にご執心でした。
そのせっかくのトリノ(北伊)*2で、マテーラくんだり(南伊)から出稼ぎ中だった義理の父と出会ってしまって、義理の母は、今でもマテーラ暮らしを都落ちのように思っているふしがあります。笑
*2 サヴォイア王家のおひざ元。イタリアの統一後、3年間とはいえ旧イタリア王国の首都にもなった。(特にイタリア側が)イタリアのリトル・パリと強弁する。笑
1964年トリノ【右】花嫁姿のアンナ叔母さん。
嫁ぐ日のビーハイヴの所要時間は、普段の倍の2時間。
【左】義理の母
ビーハイヴは、やっぱりというか当然というか、美容師さんが1時間もかけて、バックコーミング ⇒ 「今日が地球最後の日」とばかりにこれでもかとヘアスプレーを吹き付け*3、結い上げるものでした(アンナ叔母さん談)。
*3 エアゾール式のヘアスプレーは、第二次世界大戦で生まれた軍事技術の転用 ⇒ 商品化されたもの
戦争がなければビーハイヴはなかったと考えると、複雑です。いずれにしても、そのヘアスプレーのおかげで、寝ても、踊り明かしても、1週間はまんまキープできた。「実生活でもランウェイでも」使えて、「しなやかで、かつ、背を高く見せる」、「新しい時代の全く違う」ヘアスタイルに、多くの多くの女性が夢中になりました(The Washington Post)。
ビーハイヴ、バックスタイル
【右】義理の母 1967年 マテーラ
実は中肉中背が少なくないイタリアはもとより、欧米人をしても、身長を数センチかさ増しできるメリットが力説されているのは、おもしろいところです。
その麗しいビーハイヴを頭の上に戴げ続けるため、週に一度の美容師さん通いがマストだったと、義理の母も叔母も口を揃えるのでした。古今東西、楽しておしゃれはできませんね。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました!
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