生真面目さ起因の表裏一体 | 『異説東都電波塔 陰陽奇譚』劇感想

これは、劇団GAIA_crew第18回本公演『異説東都電波塔 陰陽奇譚』、6月17日14時の回を観たの作品に対して触れる感想記事だ。

前回の記事では「体験」を主軸に触れたが、今回は「経験」が主軸になるだろう。俺は「戯曲に思いを馳せるには、自身の経験の追体験を伴う」と考える。(当たり前のことだが、ここに言語化する)

そして、この感想記事で最大で言いたいことは「生真面目だから矛盾した人間になってしまったのね」、これだけである。

『異説東都電波塔 陰陽奇譚』(以降、本作)では、新技術を用いる職人陣営と祈祷等を用いる陰陽師陣営で電波塔東都タワーを建造する。これは科学と神秘学、現代と古代といった対立構造であるし、サブタイトル通りの陰陽、表裏だ。

本作に登場した桐生六郎という鳶頭が出てくるのだが、彼は職人であり、科学であり、現代である。つまりは、限りなくリアリストとして描かれる。だが、俺が知る限り建築というのは理論ではあるが、日本では儀式を重んじる。着工前には地鎮祭をするし、棟木をあげたら上棟祭、完成したら竣工祭と段階ごとに神事を執り行う。神道の儀式と日本の建築は密接な関係がある。鳶職の彼はそういったものに対しても一定の理解があるべきだろう。むしろ設計施工一貫方式で進行管理を行っていた棟梁ではなく、分業体制によって生まれた施工管理という一部分を担うだけの新たに現れた立場である現場監督の竹山正広との考えや姿勢の相違による対立が起こると考えられる立場だ。

だからこそ、彼が劇中においてそういった現象ならびに陰陽師陣営に対してのアレルギーを起こしていたことに違和感を感じえなかった。彼は何を思い、何を考え、神秘学に反応してしまっていたのか。

彼の科白に「俺らが新しいものを作ろうとしてるのに、そういう昔気質な、曖昧なもので現場を混乱させないでくれ」(手元に脚本が無いため、うろ覚えの書き起こしであることはご容赦願いたい)というものがある。この科白で桐生六郎という人物が「生真面目に、目の前の仕事と自己の関係を持っている」と俺は感じた。

違和感から始まった桐生への着眼は、そのまま俺が彼に思いを馳せることになっていた。

おかれた立場と自身の信条が相反していても、目的さえ違わなければ良しとする。そういう仕事人であるんだ、と。まあ、ややこしく書いてるけど平易に記せば「変なのって思いながら『こうやってきたから』という謎ローカルルールを飲み込んでることってあるじゃん。違和感あっても、“仕事”だからそういうもんじゃん」っていうことなんだけど。

そして、それは生真面目な人間だからこそ起こる矛盾だと俺は思う。彼は「地鎮祭とかはそういうものだ」と思うが、「心霊現象とか見えないものは信じない」と心霊現象には否定的だ。神事への理解はあるくせに心霊へは懐疑的という矛盾。彼の人間味はそういう矛盾のあり方なんだろう。

桐生六郎は周りからもそういう指摘はなかっただろうから、その自分が抱えている矛盾に気づかずに存在していた。しかし、これに気づくと大変生きるのが面倒である。基準を環境や立場に置けば、自身を犠牲にして順応しなければならない。また、自身を基準とした場合には、環境や立場に変化を求め、押し付けることになる。前者の場合、俺の見知る限り適応障害まっしぐらで、後者の場合はソシオパスだ境界性人格障害だとみなされてしまうことがある。(悔しいのは自己を犠牲にすると病名がつくことになるが、周りに押し付けると診断されることは少なく「そういう人だよね」ってなあなあにされちゃうこと)

俺が本作で泣いたのは彼と恋人との関わり方であった。結婚だなんだという未来を明確にしないまま、関係を続けていたが、東都電波塔の完成直前に恋人に結婚を申し込む。描かれている性格は、真っ直ぐな人物なのになぜ決断をしなかったんだろうと不思議に思っていたが、「ああ、彼は意気地がないとかではなく、きっかけが欲しかった」と腑に落ちてしまった。

作・演出の加東岳史さんが終了後、下記の配信にて「ダイの大冒険は大人になるとクロコダインを好きになる」という話をしていた。これは純粋に共感には自身の経験が必要だということだ。

だから、俺の経験には桐生六郎が含まれていたんだろう。自分でも気づかないうちに。


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