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サクラを忘れる。

 小さな薄桃色の座席は、しっとりとしていた。
 うっすらと、甘い春の香りもする。
 シートのふちは、せっかちなエイのように、バタバタと揺れている。
 指先でつっつけば簡単に破れそうな耐久性にもかかわらず、まさか、本当に乗れるなんて――

 桃色の絨毯は、風に身を任せて、ぼくをどこかに運んでいる。
 きもちいい。と同時に、怖い。
 ここは、地上数十メートルぐらいの高さ、だと思う。
 学校の屋上にあるような、落下防止のフェンスがあるわけではないから、転落してしまわないように細心の注意を払う。観覧車やジェットコースターを好んで乗ったことは、これまでに一度もない。つまりこの場所は、恐怖以外のなにものでもない。
 シートをつかむことなく、真ん中あたりでじっと体育座り。
 流れる景色や風の触感から、この乗り物は、高速で移動していないはず。
 降りようと思えば降りられる、気もする。
 木や電柱に飛び移ればいい。
 アスファルトでなければ、うまくいけば地面に着地できるかもしれない。
 ゆらゆらと走る飛行物体の上で、バランスを取りながら、立ち上がる。
 あいかわらずふちはランランと揺れ、乗り物全体を不安定にさせている。
 ダメだ、できそうにない。
 足元が安定していないから、飛べそうにない。
 諦めるしかないのか…
 
 しかし、この小さな薄桃色の座席は、どこへ向かっているのだろう。
 ずっと直進しているのだから、明らかに目的地はある。
 くるくると回ったり、進路を戻ったり、止まったりしていない。
 下には、人々の群れ。たくさんの人がいる。でも、ぼくの存在にはまったく気づいていないらしい。ビル群の間を走っても、繁華街の上を通っても、国道沿いに自動車と並走しても、誰も何も言わない。
 どこへいく?
 なんの目的がある?
 教えてくれ、桜の花びら!

 🌸🌸🌸
 
 ぼくはただ、会社の近くにある公園で、同僚と花見をしていただけだ。
 桜の下で、飲む、食う、はしゃぐ、シンプルなイベント。
 桜を眺めることが楽しいのかどうかわからないけれども、みんなでワイワイとすることに、ストレスは解放される。
 花見は、ぼくたちの定例イベントだ。
 三月末ぐらいに誰かがやろうよ、と声をかけて、声をかけられた者たちは賛同する。入社時期がちょうど、桜満開のシーズンだからなのか、初心を取り戻すためにも、自然に人が集まる。花見は入社式のように、みんなの気持ちを鼓舞させるためにも、必要なイベントなのかもしれない。
 花見、といえば、お酒。
 でもぼくは、ほとんど飲まない。
 味が苦手、というわけじゃない。
 たんにアルコールに強くないだけだ。
 大学生時代から、ほとんど口にしていない。
 急性アルコール中毒で倒れる学生は少なくない。ぼくもしこたま飲めば、簡単に被害者の一員になれる自信がある。たくさん飲まなくても、すぐに眠くなる。呂律も回らなくなり、座っている状態であっても、体がつらい。全身が爆発寸前のように真っ赤になり、気分もものすごくわるくなる。それぐらいお酒に弱い。
 だから今回の花見でも、ウーロン茶やオレンジジュースしか口にしていないはず。同僚のナカゾノさんとキタゾノくんは、しこたま飲んでいたけれども、ぼくはそうではない。
 つまり、花びらに乗っているこの状態は、幻覚ではないのだ。
意識が朦朧として、わけのわからない物語をつづっているわけでもない。
 もしかして、春風とぽかぽか陽気のきもちよさに、目を閉じたのかもしれない。
 ああ、これはすべて夢。
 花びらに乗って空を駆けまわるドリーム。
 夢にしては目の前の光景がリアルすぎるけれども、そう思うことにしよう。
 それが、事実だとしてしまおう。

 🌸🌸🌸
 
 かれこれ三十分ぐらい経つだろうか。
 桜の花びらは、ぼくを乗せて、どこかへ向かっている。
 今は、住宅街の上を飛んでいる。
 テトリスのように整理整頓された街並みに、人間の匂いはしない。たくさんの家族が住んでいるにもかかわらず、喜びや悲しみ、怒りといった感情がすべて、密閉されている。人類史において、はたして定住することは革命だったのだろうか。
 ぼくはすでに、しっとりとしたシートの上での過ごし方に慣れていた。
 寝っ転がったり、立ち上がったり、自由に動ける。
 それに地上での生活よりも、春風をダイレクトに感じられて、満足している。
 この場所で昼寝したら、最高かもしれない。
 でも落下したら救ってもらえる保証がないので、基本的には立ち続けている。
 花びらは、あいかわらず直進。
 どこへ向かっているのか、本当に知りたい。
 ためしに、桜の花びらに話しかけてみる。
 「行先はどこなのでしょうか?」
 もちろん、桜は話さない。
 ただ前を進み、いい香りを発しているだけだ。
 ただし、先ほどよりも、流れる景色の速度は遅くなっている。
 もしかして、話を聞いている?
 再びぼくは、行方は、とたずねる。親友の愛犬の頭をなでるように、すりすりと薄桃色の本体をさすりながら。
 徐々にスピードをゆるめる桃色の飛行物体は、高速道路の上空でストップ。エイのようにゆらゆらと動いていたピンク色のふちの動きは、もうすでに穏やかだ。桜の花びら全体は、ふわふわと宙に浮き、ぼくの体をやさしくゆする。まるで揺りかごのように。
 前進を止めたとはいえ、花びらは何も話さない。
 高速道路の上で、ぼくをあやす。
 まさか、ここから落とそうとしている――
 「な、なにをしようとしているんですか?」
 パニックになっているぼくに向けて、桜は何も話さない。
 無言を貫いている桜は、今度は、クラゲのように上下に大きく揺れながら、上空へと向かう。
 空へ空へと進む桜の上で、ぼくは目をつむる。
 やさしくゆすられているから、午睡にはちょうどいい。

 🌸🌸🌸
 
 公園での花見では、たしか、ナカゾノさんとキタゾノくんがケンカしていたっけ。
 ふたりともぼくと同期で、自分の主張を曲げることがない頑固さを持っている。だからときどき、ふたりは衝突する。
 「マーケティングのデータ通りやれば、絶対成功するって!」
 「先月までの数値はあてにならない! 需要はすぐに変わるから。人の気持ちと一緒だよ」
 「課長にどう説明するんだよ? その企画書じゃムリムリ。ただでさえ、ぶつぶつ文句ばっかりいう人だぞ」
 「別の調査会社が抽出したデータもあるから、説得できるって!」
 ナカゾノさんとキタゾノくんは宴の席でも仕事の話をするのだから、ものすごく働くことがスキなんだな。
 「営業部は、いつもああしてケンカしているの?」
 そう話すのは、ビールを片手に、少し顔を赤らめた人事部のカワシモさん。
 「わたしたちの部署は、ガツガツしていないな。いっつも穏やか」
 カワシモさんはニコニコしながら、あなたもふたりのケンカにまざったら、とぼくの肩をたたく。
 それはできそうにない、と思う。
 仕事に対して、ふたりのような意識やモチベーションの高さはない。
 晴れときどき曇り、のようなワークスタイルであっても、会社の人間から怒られることはない。可視化されていないルールをつかみ、それを守りさえすれば、だれからも文句を言われない。
 ただこの先も、ずっとここで働くことは考えていない。一方、転職を検討しているわけでもない。気の向くままに仕事をして、どこかで腰を据える。ビジネスにも生き方にも、こだわりを持てない自身を褒めるべきか、それとも呪うべきか。
 「ふたりはとても優秀です。今日は酔っているから、少し感情的な話し方になっているかもしれないけれど、あのコミュニケーションは通常運転。ときどき険悪な雰囲気になってしまいますが、他のメンバーは気にしていません」
 「人事部にはいないタイプだなー。うちは人数もそれほど多くないから、部署内が活気で満ち溢れているわけでもないし。部長もめちゃくちゃ静か」
 カワシモさんの話ぶりは、ナカゾノさんとキタゾノくんとは違い、おとなしい。この会社は、ネズミを追いかけまわす野良猫と、縁側で日向ぼっこをする飼い猫、どちらも共存している。
 「あなたはあんまりガツガツしていないね」
 さきほどよりも顔を赤らめたカワシモさんは、春風で小さく揺れる桜を見つめる。
 「どうしてなの?」
 「どうして、とは?」
 「営業らしくないじゃん」
 「あんまり向いていないのかもしれませんね、この仕事に。ふたりのように、勝ち負けにこだわったりしませんし、目標を達成することに喜びも感じません。まぁつまり、なんとなく働いているというか…」
 「本音いいすぎじゃない? しかも、採用担当を任されている人事部に向かって。まるでわたしたちの人選が間違っているみたいじゃない」
 そう言い終えたあと、カワシモさんは大きな声で笑う。
 「でも、向き不向きは、確実にあるかな。職種だけじゃなく、職場環境にもあるね。イノシシは陸上でしか生きられない。イルカは海の中で暮らしている。どちらの動物も、別の環境に合わせるためには、ものすごく時間がかかる。進化が必要だから」
 お酒は好きじゃないけれども、酔っ払いの話はおもしろい。イノシシは…なんて、猟師やジビエ料理店を除いて、一般的なビジネスシーンでは話されない単語だ。
 「進化するのか、あるいは環境を変えるのか。選択肢はどちらかしかない」
 「そう。ちなみに人事部は、現在増員募集中。外部から人を雇うよりも、社内にいる人間のキャリアチェンジを望んでいる。そっちの方がそれほど大きな進化も必要ないからね。会社のルールをわかっているし、研修も楽だし」
 カワシモさんはそう言い残して、ぼくの目の前から姿を消す。

 🌸🌸🌸
 
 どれくらい時間が経っただろうか。
 ものすごく上空にいたにもかかわらず、温水プールのような快適さに癒されて、眠ってしまった。高所であっても、そこに居続けていれば、慣れるもんだな。
 周囲を見渡すと、桜の花びらは上昇することをやめて、当初のように前進し続けている。しかし今までとは違って、流れる景色に山々や高層ビルはない。
 見えるのは、雲と群れをなす鳥たちだけ。
 恐る恐る地上をのぞいてみると、そこには一面の海――
 しかも、どこにも陸地はない。
 空と海の間に、桜の花びらとぼくはいる。そして、桃色の意志でどこかに向かっている。
 「どこへ向かっているのでしょうか?」
 午睡の前の質問を繰り返そうと思ったけれども、ぐっとこらえる。
 もはや、どこの海なのか、日本にいるのか、目的地はあるのか、なんてどうだっていい。
 しっとりとしたシートの上で仰向けに寝そべり、少し前のぼくの顔色のような雲をながめる。
 背中から漂う微香。
 少し塩辛い、やわらかい風。
 ここには、ゆっくりと、そしてじっくりと考える時間が無限に存在している。
 人事部への異動願いの理由は、どうすればいいのだろう。
 陸地での新しい生活は、書類作成から始まる。

 (了)

※この物語は、フィクションです。

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