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どこか遠い場所への行き方

文章を書きたいと思うのだが、なかなか良い書き出しが定まらない。一度掛かったエンジンがスルスルと車体を転がすように、スタートさえ決まれば後は半ば自動で筆が進むと打算を踏んでいるのであるが、幾度キーを捻れど、エンジンは苦しそうな声を上げるだけで。もっとも現代はボタン式だから、ちょいと押すだけでよく、押してもエンジンが掛からないということは滅多に無い。「なかなか良い書き出しが定まらない」とTwitterの投稿を渋っている人なんて天然記念物より珍しいし、Instagramに関してはもはや書き出しで悩むことのほうが難しいし、意味がわからない。いずれもすでに頭かメモリーに投稿したい内容があって、後は選んで気の利いた一言を添えボタンを押すだけだから、最初からエンジンが自動で掛かっているというか、アプリケーションの凄さがそこにある。

なるほど。「いいね」の数が価値だとして、その価値あるものは案外目の前に転がっているし、あなたの何気ないアイデアが世界を変える、なんて彼らのレトリックにはとても心がくすぐられる。いつでも投稿できる準備をし、カメラを構えたり、タイムラインやYahooニュースを漁ったりと常時スタンバイ。5年くらい前まではこうした行為も煙たがれていたと記憶しているが、今やなんてことはない普通の状態となりつつあるように見える。

すると世の中極度で偏向したアイドリング状態だ。しかも、エンジンを掛けるべきはユーザである運転手であるはずなのに、そうでもない。まさに、空ぶかしの様である。こう考えれば、何もしていないのに疲れる、という現代現象も不思議ではない。

少々見高に車輪が進んでしまったが、白状をすると、noteを書こうとして上記のことにやっと気づいた次第である。「書き出しで悩んだのっていつぶりだっけ?」と自問した。ちょうど一年前は修士論文を書き上げた頃であるが、書き出しで悩んだ記憶はない。学士論文の時もない。そもそも論文というのは、何を書くかが決まれば、後は型が決まっているものだから、どう書くかで悩むということはない。レポートも同様だろう。すると、高校生まで遡るが、高校生のときに何かを書いたという記憶もない。強いて言えば小論文であるが、言わずもがな、論文である。中学生の頃はどうか。国語の時間に読んだ文学の感想文はどうか。疑わしい。感想というのは作用反作用のようなもので、つまりは自動で生成されるようなものであるから、そこに悩むなんて隙きは本来無いのが妥当だろう。暴挙的に言えば、何を言おう・書こうともそれが私の感想であるため、悩むという行為自体が不自然で馬鹿馬鹿しい。ただし、その感想に他者の評価や点数となるとそうもいってられなくなるが、今は言及せず、そんなものはもはや感想ではない、と切り捨ててしまおう。

何気ない一投稿のために記憶を小学生時代まで運転する羽目になってしまったが、目当てのものは確かにあった。小学校高学年の頃にしっかりと書き出しで悩んでいた。自由作文という時間に。低学年の頃は必殺の「せんせい、あのね」から始まるノートが、書き出しという「“序盤にいるラスボス”を“いなかったこと”にしてくれる魔法」を掛けてくれていたから躓くこともなかった。それが高学年になり、魔法が解かれ、そうはいえども、いまさら「せんせい、あのね」を繰り返すにはプライドが許さず、突き上げたプライドで背伸びをし伸ばした手で広げた文学作品は、やれ「メロスは激怒した」だの、「吾輩は猫である」だの、「恥の多い生涯を送って来ました」だの、凄すぎて何が凄いのかもわからないけど、とりあえず私にはできない芸当の冒頭、数珠玉の言の葉たちに尻込みをし、悩んだ。嘘。悩んだふりをして、あたかも「書き出しさえ決まれば凄いのがぼくにも書けるんだ!」を演出したかったのが幼心の虚栄心だった。でも、ぼくだけではなく、周囲の友達も皆そうした虚栄心を守る防御の呪文「書き出しが決まらない」を唱えていたはず。懐かしい。

振り返ってみると、小学生の頃は自由作文という時間があったのに、以降の学校という場では進路で悩むことはあっても、自由の上に成り立つ創作ということで悩むことは無くなった。「将来何が起こるかわからないからとりあえずいい大学を出とけ」という保険が音を立てて瓦解している現代で、「さあ学歴も肩書も不問になりました、自由に自分の人生を創作してください」と言われても土台無理な話だ。少なくとも、たった一つのnoteの投稿でさえ、私はこれなのだから。

でも、これはこれで楽しい。実は走り出してから1時間は掛かっている超スロー運転中であるのだが、そんな鈍足運転だからこそ、普段は見過ごしている景色を楽しむ余裕がある。そして、「少なくとも進んでいるからこそ、どこかには着くだろう」という呑気なアテが、次もまたどこか知らないところへ駆けてみるか、という勇気をくれる(と思っている)。大人になった私が15年も前のぼくに手紙を書くのであれば、そんな巨匠たちと比べること自体がそもそもおこがましいから、肩肘張らず、思ったことを書いてみるといい、それに冒頭から書き始めなくても良い、と送りたい。

P.S. 
アイドリングは地球にも自己環境にもお財布事情にも悪いから、遠くに行きたいのであれば、不必要なエンジンは切って、身も心も休息するといい。

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小さなテーブルに花束を/神長広樹
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