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合理的な支配を目指して

ウェーバー『権力と支配』

どうも、おうち時間ガチ勢の阪本です。ガチ勢過ぎて最近ついにヘブライ語を習い始めてしまいました。いや、もっと働けよ。

今回の写真で僕がロックオンしているのは手を取り合う3人の「カリス」、すなわち美と優雅を司る女神達です。僕とあまりにもダンスが息ぴったりなもんでびっくりしちゃいました。。。

でもそれは当然です。なぜなら「恵み」という意味を持つカリス(Χάρις)こそカリスマの語源だから!(自称)神戸のカリスマである僕と通じる部分があるのも納得ですね〜、ええ。

近代と対峙した知の巨人

歴史学や社会学を学んだ人ならいざ知らず、そもそも不思議に感じたことはありませんか?古代、中世、近代、現代...我々はどうしてこういう時代区分で歴史を考えているのか?と。

きっと何かしらそれぞれを隔てる特徴があるから、そういう分け方を学者たちがわざわざ設定したわけですよね。まあそりゃそうなんでしょうけど、じゃあその隔たりとか特徴って一体なんなんですかね?

社会学3大開祖の1人と目されるマックス・ウェーバーもまた、近代の人です。近代の特徴とは何なのか?何が近代を近代たらしめたのか?それ以前と以後とでは何が変わったのか?こうした疑問が湧いたのはごく当然だったといえるでしょう。そしてそれらに向き合うことが、彼の研究の、そしてその後の社会学の中心テーマの1つにさえなっていくわけです。

今回の本の範囲においてウェーバーが向き合っている〔近代的〕なるもの、それは〔合理性〕です。中でも近代的な官僚制の中にこの〔合理性〕を見て、他の制度との比較を試みようというのが、今回の本の趣旨です。

この作業、意味あります?

社会人2年目になり、私阪本も社会のリアルが少しづつわかり始めた今日この頃です。1番の学び、ですか?そうですね〜、会社って本当に驚くほど無駄な作業が多いな〜ということが知れたことですかね。(注:弊社とは言っていないですからね!?いいですか!?某(株)イン●パイアザネクストの話とは!?言っていないですからね!?)

なのでいちいち作業の度にそれの意味なんて考えようものなら何も進みません。(と、友達が言っていました)

うっかり「この作業、意味あります?」なんて疑問を口にしようものならば、上司からの回答はわかりきっています。(と、友達が言っていました)

「上からの業務指示だから。」(と、友達が言われたそうです)

ではここでウェーバーが〔支配〕について語っている部分を見てみましょう。曰く、

〔支配〕というのは、挙示しうる一群の人びとを特定の(またはすべての)命令に服従させるチャンスのことである
〔服従〕とは、あたかも服従者が命令の内容を命令そのもののために、しかもひとえに形式上の服従関係のゆえに、命令そのものが価値をもつかどうかをみずから詮索することなく、自己の行動の格率としてしまったかのように、服従者の行為が本質として経過するということを、意味することにしておく

なるほどなるほど、どうやら我が友人の上司の方、そしておそらくはそのまた上司の方も、会社へしっかり〔服従〕しておられるご様子ですね。その〔服従〕が社長以下レポートラインへ遍く行き渡っているが故に、その会社には〔支配〕が通徹している、そんな風に言えそうです。

まあそうやってウェーバーぶって偉そうに分析してみたところで無駄な作業をやらされることに変わりはないんですけど。(と、友達が言っていました)

支配の三類系

とはいえいちいち作業単位で意味を考えていないからといって、〔服従〕するからには何かしら上司たちや会社による〔支配〕に対しての〔正当性〕を感じているからそうしているわけですよね?この〔正当性〕にウェーバーは着目し、以下の3つに分けてそれぞれ検討を加えていきます。(図1参照)

スクリーンショット 2020-06-05 午後1.41.13

これが社会学を学んだ人なら一度は聞いたことがあるであろう、〔支配の三類系〕というやつですね。

ただし、ウェーバーは"三つの理念型が、一つとしてまったく「純粋に」あらわれるためしがない"と注記しています。さて、どういうことでしょう?

火影の正当性

我らが人生のバイブル「NARUTO」では「影」という統治システムが登場します。主人公であるナルトは「影」の一角である「火影」を目指すわけですが、火影はその里最強の忍者で(カリスマ)、火の意思の最大の継承者にして体現者であり(伝統)、そして統一試験によって選抜される下忍や中忍を始めとした忍者たちのトップ(合法)でもあります。

「え!?なんの話!?NARUTOはもういいよ!全部鬼滅のパクリじゃん!」

落ち着いてください。ここで僕が言いたいのは、「影」による支配1つとっても、3つの正当性が複合的に作用して成り立っているということです。ウェーバーの三類型はあくまで〔理念型〕なわけで、前述した通り、純粋に型通りの正当性が、それも独立して見られることはないのです。

日本でもそうですよね?首相も選挙や党内選で選出されたある種の〔カリスマ〕で、首相率いる内閣やその手足たる官公庁の役割は法律によって〔合法〕に規定されているのですから。

官僚制は合理的・・・?

ではここからは三つの類型を順に見ていきましょう。まずは〔合法〕です。ウェーバー曰く、

合法的支配のもっとも純粋な型は、官僚制的行政幹部による支配である

この官僚制的支配をウェーバーは、

形式上もっとも合理的な支配行使の形態である

と断言した上で、その基本的範疇として以下の7つを挙げます。
1.”持続的な、規則に拘束された公務の運営であり、この運営は”
2.”権限の範囲内でおこなわれる”
3.”官職階層制の原則がつけ加わる”
4.それらにもとづいてなされる規則を合理的に適用するには、専門的訓練が必要で、それを経た者だけが、〔官僚〕として任用される資格を持つ。〔官僚〕は、合理的諸団体の典型的な行政幹部を形づくる
5.行政手段や調達手段からの行政幹部の完全な分離という原則
6.”完全に合理的な場合には、およそ占有者による官位の専有などというものは存在しない”
7.行政の文書主義という原則が通底する。そして役所、すなわち”あらゆる近代的行為の唯一の核心”を生み出す

「いや、多いわ。笑」

そうなんです、ウェーバーパイセンはとにかく細かいんです。超はしょってもこれです。僕はウェーバーパイセンのこういうオタクなところが大好きなんですが、読んでいて疲れる人が多いのも頷けますね。

でもまあ、いかにも我々がイメージする典型的な「官僚」像に近い話をしているんだということは、なんとなくおわかりいただけるかと思います。ただここで注意しておきたいのは、上記のような特徴の支配は行政だけでなく企業や近代的政党の党内組織などでも適用されうるし、現にされているというのがウェーバーの見方です。(とはいえ当然、議論の中心となるのは行政官の話です。)

実際、いわゆる大企業はまさしく上記のイメージと合致します。例えばとある会社ですと、営業の責任は営業部門にあり、製品の責任は設計部門にあり、そしてそれゆえに営業が製品設計に口を挟むことはできません。超縦割りです。設計部門が営業の売り方に文句を言うこともできません。だって、権限の範囲外なので。当然、A製品の設計部門がB製品の設計部門に、あるいはA社担当の営業部門がB社担当の営業部門に物申すこともNGです。

「ん?でもそれって本当に合理的なのか?だってお客さんとか市場のニーズは営業の方がよくわかっているはずだし、それも製品設計に取り入れた方が合理的なのでは?」

おっと、誰か来たようだ...あ、再三で恐縮ですが弊社とは言ってないですからね?あくまで?友人から?聞いた話ですから?ね?

まあ本当に行政が合理的なのかってところも疑問に思われている方はきっと多いですよね。橋下徹さんで有名な大阪の改革一つとってみても、実際に役所の行政に膨大な無駄があってそれを解消できたから、財政の健全化を始めとした諸成果が出たわけです。

じゃあウェーバーが間違っていたのか?とも言えるかもしれませんが、やはりあくまで彼が議論しているのは"理念型"なわけです。曰く、

理想的な官僚は、憤怒も不公平もなく(sine ira et studio)、憎しみも激情もなく、それゆえ「愛」も「熱狂」もなしに、ひたすら義務観念の命じるままに、その職務を遂行する

いや、そんなやつおらへんわ。笑

ですが官僚制的支配が〔伝統〕や〔カリスマ〕を正当性の中心とする支配よりは兼ね合理的と言えそう、との考えには、多くの方がご賛同くださるのではないでしょうか。近代国家が飛躍的に発展を遂げたのも、官僚制的支配のおかげだとウェーバーは述べています。ウェーバーは(厳密な)官僚制の利点を以下のように述べています。

精確さ、迅速性、明確性、文書についての精通、持続性、慎重さ、統一性、厳格な従属、摩擦の除去、物的および人的な費用の節約は、(中略)最高度にまで高められている

うちはそういう文化だから

続いて合理性とは真っ向からぶつかりそうな〔伝統〕を見てみましょう。まずウェーバーの定義を確認すると、

支配の正当性が、古くより伝承されてきた秩序や首長権力の神聖、という基礎に立脚しかつ信じられるとき、その支配を伝統的〔支配〕とよぶことにしておく

またウェーバーは“純粋な型の伝統的支配の行政幹部は、つぎのものを欠如している”として、以下5つの要素を列挙しています。
(a)没主観的な規則にもとづく明確な「権限」
(b)明確な合理的階序
(c)自由な契約を介した規定どおりの任用と昇進
(d)専門教育
(e)固定給および貨幣給

イメージとしては原始共同体を村長が率いるようなものでしょうか?ですがやはり純粋に〔伝統〕だけを支配の正当性とする統治は中々イメージが付きません。例えばウェーバーは〔サルタン制〕を一例として挙げています。そこでオスマン朝最盛期のスルタンである、スレイマン1世の統治なんかを考えてみると、官僚の階序や専門教育の面で存外高度な体系を持っていたりします。また彼の治世で様々な法整備がなされたことも知られており、〔合法〕的要素が支配の正当性に寄与していたことも無視できません。

とまあモヤモヤは残るんですが、いずれにせよ、結局のところ彼にとって大事だったのは、こうした〔伝統〕的な正当性に基づく支配が、経済を合理化することを基本的にしないということです。従って、資本主義とも相性が悪い。つまるところ、ウェーバーの考える〔近代〕とは折り合いづらい正当性だったわけです。(彼の資本主義論については『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を取り上げた際に解説します)

〔伝統〕が合理化を阻害するというのは、会社でもあるあるですよね。なぜいつも飲み会で部長の隣に若い女性が座るのか?なぜハンコをこんなにもらわなければならないのか?なぜ残業代がつかないのか?なんて疑問を口にしようものならば、上司からの回答はわかりきっています。

「うちはそういう文化だから。」(と、友達が言われたそうです)

ではどういった際にこの〔伝統〕による支配が打ち破られるのでしょうか?ウェーバー曰く、

伝統にしばられた時代では、カリスマは唯一の革命的な勢力である

「最強の者が帝国を継承せよ」

ここでもまずは〔カリスマ〕の定義とその承認方法を確認しておきましょう。

非日常的なものとみなされた、ある人物の資質を「カリスマ」とよぶことにしておく
カリスマの妥当性を決定するものは、被支配者による自由な承認であるが、これは、証によって-はじめはいつも奇跡によって-確保され、啓示への帰依、英雄崇拝、指導者への信頼から生まれてくる”

とまあ、概ね我々が普段使うカリスマの用法とあまり変わりません。あ、正確には「経済的手段を持たない」とかちょっと僕らの感覚とは違ったカリスマの特徴も挙げられているんですが、ウェーバーも"「純粋に」あらわれるためしがない"と仰っているんですから、今回はそういう理解で良しとしましょう。要するに僕のようなカ(ry

さて、カリスマは〔非日常的〕であるというその性質上、〔日常化〕という問題を避けては通れません。それにはカリスマ自身が向き合うこともあれば、その後継者が取り組まなければならないこともあります。ウェーバー曰く、

カリスマ的支配は、その真正の形においては、とくに非日常的な性格をもっており、(中略)もしも、この社会関係が、(中略)永続的関係(中略)の性格をおびてくるならば、カリスマ的支配は、その性格を根本的に変化させざるをえない。(中略)伝統化されるか合理化(合法化)され、あるいは、種々の点で、双方の性質をおびてくることになる

例えば各国の王様を考えてみると、〔カリスマ〕によって人々を率いた初代の地位が世襲されていく中で〔伝統〕による支配へと変わっていくケースは想像しやすいですよね。一方で各国の大統領や首相も、「独立の父」のような〔カリスマ〕が築き上げた〔合法〕的手続、すなわち選挙によって選出されているケースが多いわけです。考えてみれば、〔伝統〕的支配も〔合法〕的支配も、その源流には〔カリスマ〕的支配があったと考えられるものが数多くあります。

かつて偉大なるアレクサンドロス大王はこう言い残して世を去りました。「最強の者が帝国を継承せよ」

ここで後継者の正当性として〔カリスマ〕が強く志向されていることは明らかですね。では結果はどうなったか?世界史を学ばれている方ならお馴染み、ディアドコイ戦争が勃発し帝国は三分割される羽目となります。つまり、〔カリスマの日常化〕は失敗したわけです。いや、そもそも〔日常化〕は目指されてすらいなかった、と言う方が適切でしょうか。

仮に大帝国を存続させたかったのであれば、〔日常化〕を目指して後継者の指名か、あるいはリーダー選出の制度を整備する、といったことに、大王は手を着けておくべきでした。そもそも大王ほどのカリスマを後続に求めること自体、土台無理な話なのですから。

もっとも、弱冠32歳にして世を去った彼にそこまで求めるのは酷ですが。

我々がこの本から得られることは何か?

ウェーバーが対峙した社会と、我々が暮らす社会とでは、あらゆる意味で違っています。それでもなお学び取れることがあるからこそ、古典は読み続けられてきたわけですよね。では今回、我々は何を学びとるべきだったのか?私見を以下3点に要約します。

①徹底的な検討姿勢

先にも述べましたが、ウェーバーパイセンの仕事はとにかく細かいことが特徴です。『権力と支配』だけで考えてみても、紙面の都合上今回は飛ばしてしまいましたが、合法的支配への移行期としての封建制の話や、官僚制的支配と資本主義、あるいは民主制との関わりなどなど、語るべき重要な論点がてんこ盛りです。それはウェーバーがそれだけ徹底的に、あらゆる側面から〔支配〕の〔正当性〕への検討を行った結果です。ウェーバーは自身の仕事に対して、かなりの官僚的な徹底さをもって接したに違いありません。

Stay Homeで時間の余裕が出来たという私としては是非ともこの機会に、普段の倍かけて何かを考えたり、こうして文章を書いてみたりして、彼を見習いたいものです。

あ、ちなみに今回のこのnoteは書き終わるのにこれまでで一番時間がかかっています。笑 ウェーバーパイセン、良くも悪くも丁寧すぎるんですよなぁ...笑

②憎むべきは人ではなくシステム

こうして本を検討し終えて改めて感じるのは、支配のあり方が人々の行動性質をかなりの程度決めてしまう、ということです。例えば、同じ会社の中なのに各々の部署がよくわからない争いで足を引っ張りあっていたり、ちょっとした問い合わせでたらい回しにさせられたり、意味のわからないルールがたくさん存在したり、私たちは不合理な事象に日々遭遇します。

そんなときに怒りの矛先が向くのはおそらく「人」であることが多いでしょう。「あの課長、考え方が古いんだよ」「それぐらいやらせてくれてもいいじゃん、部長のケチ」「アイツのせいでまた手戻り発生しやがった」

勿論、一人一人の仕事に対する姿勢でそうしたことが起きているのも事実です。ですがその姿勢すら基底してしまっているのが〔支配〕なのです。その組織の〔支配〕がどのような性質なのか、換言すれば、どういった組織原理になっているのかによって、構成員のマインドセットが決まってしまっているわけです。

「そっか、あいつも〔支配〕されてるんだし、まあ許してやるか!」こんな風に考えることで、人ではなくシステムへと怒りを向けるよう心がける。サラリーマンウェーバーなら、きっとそうします。

③正当性のバランスの重要性

ウェーバーの議論としてこの本の範囲で一番引用されるのは官僚制に関する部分ですが、その際、ウェーバーが官僚制のマイナス面に触れていなかったと批判されることがしばしばあります。

ですが本書を読むと、官僚制が自分たちの権益を死守しようとするために民主制と対立することや、秘密主義的にならざるを得ないこと、またディレッタント(好事家)に過ぎない政治家や君主の意見を"素人の意見"だとして無視する傾向にあることなど、官僚制の負の側面についても書かれています。

しかしウェーバーから言わせれば、官僚制をなくすこと自体、不可能なのです。曰く、

ひとたび官僚制的支配機構が存立する以上、それをなしにすますこともできなければ、それをとりかえることもできない

ウェーバーが〔精密な機械〕と呼ぶ官僚制は、ひとたび動き出すとその社会にとっての有用性と複雑さの故に、誰も切り崩すことができなくなるし、やったとしても混乱を生むだけだ、というのです。

「阪本、さてはアンチだなオメー」

違います。僕もウェーバー同様、官僚制的支配の存在意義を高く評価しております。実際、みなさんの周りにも数多くいらっしゃるのではないでしょうか。非常に優秀で真面目で勤勉な官僚の方々が。こんなコロナの状況下でも、彼らのような方が辛苦をなめて働いてくださっているおかげで、我が国は成り立っているわけです。

だからこそ、何故?と問わずにはいられません。どうしてコロナ関連の特別定額給付金の電子申請が、紙での申請より手間がかかる羽目になるのか?そもそもマイナンバー制度設計段階で既存の行政システムとの円滑な連携イメージが描かれていなかったのではないか?これが本当に、あの優秀な官僚の方々の成果物なのか?

官邸主導の政治が進む昨今、官僚の発言力は明らかに弱まり、政治家への忖度も酷くなっていると、僕が心から尊敬する、ある省庁の方が嘆かれてました。この意見が実際どれほど行政の実態を表しているのかは僕には判断できませんし、外交や経済といった分野によっても異なってくると思います。ただその方は断言します、「官僚はイエスマンであってはならない」。

政治家はあくまでディレッタントに過ぎません。ですが専門家である官僚に全てまかせていても、省庁を横断するグランドデザインを描くことが出来ず全体最適が図れないこともまた事実です。

また、ウェーバーの言うような〔伝統〕的支配はもはや時代遅れかもしれませんが、〔伝統〕そのものは依然としてある一定の価値を持つと、僕は感じています。なぜなら、それを軽んじ放棄し続けていては、社会の安定性は生じえないですし、「法で制限されていないことはなんでもやっていい」ということにもなりかねないからです。『ディスコルシ』ではマキャベリが王政・貴族制・民制のバランスが重要だと説きましたが、支配の正当性においてもバランスをとることが大事だと、僕は考えます。

〔伝統〕を重んじつつもそれを刷新し続け、官僚制の強みを活かしきることのできる〔カリスマ〕の存在が、真の〔合理〕的支配実現には不可欠ではないでしょうか。

そしてこの僕こそがまさにそのカ(ry

さて、長くなりましたがここまでです!今回の本が引用されるPSYCHO-PASSの第19話でも見つつ、引き続きウェーバーを読んで、最高の日曜日を始めるとしましょうかね〜!

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