権利さん,そのままお進みください。忘れ物が見つかります/大岡政談「天日裁き」より
1 はじめに
今回は,大岡政談「天日裁き」を,「権利」というものの一側面を見つめる素材として読んでみたいと思います。
この記事は,下記PDFで述べた法に関し,「占有」と「権利」の関係性をイメージ的に例解するものです(念のため:この記事は大岡政談を対象として現行法を解説するというような種類のものではありません)。
一般に知られている大岡政談「天日裁き」について,下記テクスト(テクストを名乗るのもおこがましい拙文ですが)を作成したので,これをベースに考えていきます。
2 テクスト
3 「天日裁き」への一視角
(1)権利について
法において,権利・義務関係の重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。
権利・義務関係で整理するということは,端的にいえば,ある主体間の関係について,その性質をはっきりさせたうえで(売買なのか,賃貸借なのか等),その主体間を相互移動する対象(お金や物など)の量をはっきりさせることだといえます。これにより,カオス状態の諸関係が整序されて一定のコスモスが生じ,人は生きやすくなります。
物を買おうと思って代金額を尋ねると,「それは後でいいから」と言われたので物を持っていったら,後日,とんでもない金額を請求されたら困りますし,ましてや,「お金を払わずに持っていったら泥棒でしょう」と相手から言われては立つ瀬もありません。主体間の諸関係について,その性質と量が不明瞭・不透明であるようでは,人は安心した生活を送れそうにありません。
そこで,一見堅苦しいようにみえる「形式」をもつ権利・義務関係により,社会での生活関係が織り成されることにより,かえって人は自由となるのです。
「私は誰から買うのか」「私が買う物はどれか,どういう内容のものか」「私は,いつ,いくら払う必要があるか」「この物への権利は,いつ私に来るのか」などが明瞭だということ,これが権利・義務関係が機能していることの意味です。
この視点からいえば,かかる「形式」は固く安定していればいるほど,人は現状を正確に認知でき,また未来を予想できるので安心して生活することができることになります。あらゆる事象を「形式」によって認知し,その「形式」を操作することにより生活上の諸関係が動き,あるいはこれを動かしていく。人が有するあくなき「形式化への希求」の一つの現れともいえます(「形式化への希求」については,西垣通『デジタル・ナルシス ― 情報科学パイオニアたちの欲望』208頁(岩波現代文庫,2008)参照)。
しかしながら,ここに暗転の契機が含まれています。
固く安定しているということは,換言すれば,柔軟性を欠き,多様な諸現実に整合しない場合がでてきたり,ありは千変万化の事態変化に即応しにくいということです。それを横目に,「形式」化された権利を振りかざし,行けるところまで行こうという者もでてきます。
(2)権利の暴走の先
権利を走りに走らせるとどうなるか,というのがこの「天日裁き」のテーマであることは,分かりやすいところだと思います。
大岡は,最初のお裁きでは「平兵衛の土地所有権及びその権利行使」を認め,再度のお裁きでは「藤蔵の土地所有権及びその権利行使」を認め,両方認めて両方とも不幸になる結末を見せつけることで,全体を最終着地点に導いています。劇的でもあり,物語としてやはり名裁きです。
(3)危険な測定
さて,法律家であれば,最初のお裁きの段階で,次のような対抗図式を設定することが考えられます。
〈平兵衛の土地所有権〉対〈藤蔵の営業権〉
それぞれに権利を有しており,それが矛盾衝突している。その対抗を前提に,双方の権利の内容・価値,その制限の程度などを考えて,まるで天秤で測るかのように調整する,という考え方もありえるところです。
しかしそれでは,測れないものを測りだすという危険なゲームに踏み出しかねません。なぜなら,対抗する両者は,実は一義的な数値軸上に並べて測れるようなものではないからです。
蔵を建てることにより得られる平兵衛の経済的利益を算出し,他方で,これにより被る藤蔵の家業停止・転業までの損失補填などの金額を比較し,前者が後者を上回れば平兵衛を勝訴させ,あとは代償金で衡平を図るなどという解決を考える人は,まさかいないと思います。
なぜか。
紺屋という家業は藤蔵にとって,お金に換算できない大切さを持っているからです。これを測定されたのではたまりません。測定はときに,かけがえのなさの無視です。
(4)占有の視点から
自分の権利を握りしめていた平兵衛が見落としていたものは,いったい何でしょうか?
すでに述べたようにそれは,藤蔵とその家業たる紺屋業とのかけがえのない関係性です。平兵衛による蔵の新設行為は,この関係性を破壊するものであり,その点により速やかに敗北すべきものでした。
この判断手法は,前述した「測定とその衡量」とは全く違うものです。かけがえのなさから思考するものであり,また,権利主張の前提段階においてなされるべき思考だからです。
4 おわりに
平兵衛が見落としていたのは,自分に蔵を建てる土地があるように,藤蔵には日の当たる土地があるということ,それにより藤蔵が大事にする紺屋家業ができるということであり,それを蔑ろにすることは,自己をも蔑ろにすることであって,端的に言えば,自分の存立基盤を忘れれば,やがてそれを自分で掘り崩すことになる,という論理構造でした。
大岡は,そのことを現実の形で全当事者に突き付けることで,いやおうなしに実感させたもので,吟味するに値する含蓄のある物語であるといえます。
5 補論
最初のお裁きにおいて大岡から紺屋をやめて金魚屋をやったらどうかと示唆された藤蔵は,なぜその目を光らせたのか。
この時の藤蔵は,確かに大岡の意図を感じたのであるが,そのすべてを感じ取ったのではない(そもそも大岡は権力者であり,以後の振る舞いにつき藤蔵には予測もコントロールも一切不可能である)。藤蔵の目に宿った光は,明るい未来のどんでん返しを予期する希望のそれではありません。
藤蔵の目に宿ったのは,「死なばもろとも」の暗い破壊的決意です。
それは,翌日から「狂ったように」自身の土地を掘り返す藤蔵の行動に表われています。藤蔵は自身の紺屋家業を大事にし愛しています。その愛するものを自身の手で破壊する。この時に狂わない人はいません。
藤蔵が決意したのは,自分の大事にしているかけがえのない家業を自身の手で破壊し,そのことにより,平兵衛の大事にしている質屋業をも破壊してやる,という暗い破滅的報復であったということです。
【参考文献】
木庭顕『誰のために法は生まれた』(朝日出版社,2018)
木庭顕『法学再入門 秘密の扉 民事法篇』(有斐閣,2016)
西垣通『デジタル・ナルシス ― 情報科学パイオニアたちの欲望』(岩波現代文庫,2008)
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