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彼のメスは何を切ったのか? /手塚治虫,ブラック・ジャック「医者はどこだ!」
〔このnote記事では、手塚治虫「医者はどこだ!」(『ブラック・ジャック①』(秋田文庫,1995)所収)の内容に触れますので、まだお読みでない方はご留意願います〕
1 はじめに
今回は、手塚治虫の『ブラック・ジャック①』所収「医者はどこだ!」(秋田文庫,1995)について、一視角から考えてみたいと思います。
作画の魅力とストーリー展開の妙、平易ながらも人間心理を抉るセリフは、現物を読まなければおよそ感得不能ですので、ご興味のある方はぜひ下記文庫をお読みいただきたいと思います。
手塚治虫『BLACK JACK 第1巻』(秋田文庫,1995)
*秋田書店のWebサイトで「医者はどこだ!」は試し読みができます。
*手塚治虫公式サイト|オススメデゴンス!『ブラック・ジャック』より 医者はどこだ!
ブラック・ジャックはなぜ孤高に輝いているのでしょうか。
天才外科医としての才能や技術があるからでしょうか。その尋常ならざる技能で法外な報酬を稼ぐことができる経済的独立性のゆえでしょうか。
これらは物語上、確かにその理由となるものですが、もっと深いところに問いの答えがあるように思われます。この点に加え、物的論拠という問題についても少し触れてみたいと思います。
なお、ブラック・ジャックはお話のなかで、素晴らしい医療行為を行うのみならず、常識はずれのありとあらゆる違法行為をします。そこにみられる契約の解釈や不法行為、犯罪の成否や責任の有無などの諸問題を法学入門の素材として検討することも面白いかもしれませんが、個人的には興味の範囲外です。
2 「医者はどこだ!」への一視角
(1)不条理
ブラック・ジャックのメスは何を切ったのか?
読者は読みすすめる中で、どうにか仕立屋のデビイに逃げ道はないのだろうかという気持ちになります。
遠くへ逃げたらどうだろうか。しかし、ニクラの力がデビイをどこまでも追ってくるだろう。ニクラの力と謀略により逃げ道は塞がれています。
本来何ら死に追いやられるべきではないデビイに黒くのしかかる不条理。これをどうにか避けることはできないか。
(2)分節
ブラック・ジャックの対応は、単純にデビイを遠くへ逃がしたり、ニクラの猛進(息子アクドを助けるための謀略行動)を砕いたりすることではありませんでした。
彼は、「その顔と、顔以外のその人の人格・人生とを分節する。分節した顔を取り換えても、その人はその人である。」「デビイは、不条理の根源たる者の顔となる。しかし、必ず母親は見抜いてくれる(母親が見抜いてくれなけば、結局、母親は息子を失ったことと同じだ)。」という認識に立ち、デビイの死という究極の不条理を避けるために勇気をもってメスを振るったのです。
一般的な観念として、その人の「顔」と「その人の人格・人生」とは結合した一体不二のものである、と理解されているはずです。それゆえに、顔写真付きの証明物(運転免許証や個人番号カード)が、個人の同一性証明の用具として重視されるという社会的実態が活きてきます。
しかしよく考えてみれば、「顔」は整形手術で変えることができるのですから、顔とその人の人格・人生とを一体不可分として、「顔」でその人の同一性を判断する「顔写真付き証明物による証明方式」という慣行は、精密度としておよそ完全ではありません。しかし同時に、その顔がその人の人格・人生を象徴するように受け止められているからこそ、通常、人は顔の整形には極めて慎重になる(だから、この慣行も一応成り立つ)。
つまり、顔とその人の人格・人生は切り分けられないとの一般に共有された観念があるのです。ましてや、それを「他の実在する人物の顔に変えてしまう」ということは、その人物に成り代わってしまうこと、その人物(の人格・人生)を乗っとってしまうことにつながり、考えることさえしない、というのが多くの人の態度ではないでしょうか。
しかしブラック・ジャックは、かかる一般的な共有観念に縛られない自由独立の精神を有するがゆえに、ここに、切り込むべき分節線を見いだします。
顔は顔に過ぎない。たとえ顔を変えても、心も人生も培った技能も、すべてデビイのまま何ら変わらない。この変わらないデビイの人格・人生の来歴の象徴が、「仕立屋としての手捌き」でした。
逆にニクラは、術後においても、前述した一般的な共有観念のまま(少なくとも当面は)突っ走ることになり、デビイの母親(同人はブラック・ジャックの分節線を受け入れた)の認識転換との鮮明な対比をなします。ニクラが、いかに自身の息子を理解・認識していなかったかが明らかになる構成となっています。
しかし、母親の認識転換には、一つの乗り越えるべき壁がありました。
(3)物的論拠――顔+供述 vs 手捌き
術後、店を訪れたデビイは母親に対し「ママ ぼくだよ」「ぼくだよ デビイだよ! ママ⋯帰って来たよ!!」と言いますが、母親は「いいえ あなたはうちのデビイじゃありません」「デビイは死にました」と言って全く信じようとしません(同書24頁)。
いかに語られても、言葉はときに無力です。記号たる言語と言語外現実との結びつきが恣意性をもつ以上は、「ぼくだよ」と言われても、その言葉が本当に母親が思う「ぼく(デビイ)」ときっちりと固く結びついている保証がどこにもない。最もそのことを知っており、最もそのことにより利害関係を有する者が、そのことを最も不利に言うという自白であっても(本件では物事の効果は逆方向ですが、アクド顔の人間が自分をデビイであると言う、という構造として捉えれば自白と似ている部分もあります。)、その言葉がどの現実を指しているのか、確実に一義的に結びつけることができないのです。
他方にあるのが「手捌き」という物的側面です。
実演する手捌きにより、デビイはデビイを実証する。唯一性あるハサミの手捌きが、絞り込まれたスポットライトが強烈に一点を射すように、唯一性たるデビイをはっきりと指し示すのです。当該手捌きはデビイ以外の人物を意味し得ない、という物的論拠による確実な一義性により、母親ははじめて目の前の青年が自分の息子であると知ることができたのでした。
3 おわりに
ブラック・ジャックの振るったメスは、デビイの顔を整形のために切るという前に、「顔とその人格・人生の結合」という一般の共有観念を凝視しながら、追い詰められたデビイとその母親のために、自由の精神力で分節線を見いだしその分節線へ切り込んだといえるのではないでしょうか。
と同時に、母親がデビイをデビイと再認するためには、どうしても「手捌き」という物的論拠による実証が必要であったという冷厳な事実をも、この物語から受け取る必要があるように思われます。
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