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夏目漱石「坊っちゃん」より/赤シャツの罠、漱石の罠

〔夏目漱石「坊っちゃん」『夏目漱石全集2』所収(ちくま文庫,1987)について、限られた視点からではありますが、切り込んで読んでみたいと思います〕

夏目漱石『夏目漱石全集2』(ちくま文庫,1987)



1 はじめに

夏目漱石の凄みを感じるおそろしい作品が、私にとっての「坊っちゃん」です。

もちろん抜群に面白い小説です。坊っちゃんの眼を通して語られていくこの四国の町と綽名あだなでしか呼んでもらえない戯画化された人物達の動きは、彼にとって何と滑稽と欺瞞に満ちており、私たち読者にとって何と楽しいエンタメ性にあふれていることでしょう。素朴でスピード感ある文体に乗って、ぐんぐんと物語を進行させ、読み手を坊っちゃんの認識世界に巻き込み、鬱憤うっぷんを晴らすような手際でさっと終結に至る。言葉の巧み過ぎる操作による物語構築力に圧倒されます。

しかし、どうもそれだけではない気がします。


さて、まずはこの作品を素直に表から読み、網羅的ではありませんが特に《赤シャツの罠》に注目してみたいと思います。そのあとで、この作品をひねくれて裏から読んでみたいと思います。そこには《漱石の罠》とも呼べる深みと含意が潜ませてあるように思われるからです。



2 赤シャツの罠

(1)前提

主人公の坊っちゃんは「四国松山の中学に赴任した28歳の数学教師。行動的で正義心がつよい江戸っ子で、俗物教師 赤シャツらを相手に痛快な活躍をする」(コトバンク/デジタル版 日本人名大辞典+Plus 講談社)、あるいは、「親譲りの無鉄砲で損ばかりしている主人公が、四国の中学校に数学教師として赴任し、宿直の夜にイナゴ攻めにあうなど生徒たちのいたずらに悩まされる。果ては教師間の内紛に巻き込まれ、生来の正義感を爆発させた。同僚の「山嵐やまあらし」と協力して、奸悪かんあくな教頭「赤シャツ」らに「天誅てんちゅう」を加え、辞表を出して四国を去るという筋」(コトバンク/日本大百科全書(ニッポニカ) 小学館)、とされています。

小説「坊っちゃん」の理解としてこれが一般的なものであろうと思いますので、まずはこれを前提とします(*1)。


(2)赤シャツの戦略目標と戦術

策士たる赤シャツの戦略目標は次の二つです。
① マドンナを得るため、うらなり君を排除する。
② 上記①を妨害する言動をとる山嵐を排除する。

②については少し複合要因があります。赤シャツと山嵐は主に①の点で対立し、それを機に折合いが悪くなったとのことで(同書329頁)、赤シャツとしては山嵐を忌避する広い心理的背景があり、そのためにも排除するということです。生徒から人望のある山嵐と折合いが悪いのであれば、《マドンナ・うらなり君問題》が赤シャツの望み通り帰結したとしても、教頭たる彼の職場環境にとって目障りな障害物が残り続けることになるからです。

さて、赤シャツはこれらの戦略目標を達成するために、以下のような戦術を取ったようです。
㋐ うらなり君を遠くへ転任させる。
㋑ 山嵐をめて辞職に追い込む。
㋒ 坊っちゃんを目標達成のために利用する。

補足すると、㋒坊っちゃんを利用するのと同一平面にあるのが、野だの利用です。彼を子分として利用するわけですが、赤シャツの謀略と意図を共有して動く野だと、謀略と意図を共有せず動く坊っちゃんは、赤シャツからすれば自己の計画を実現する道具立てとして同じ意味合いを持ちます。

赤シャツは、㋐については、うらなり君の金銭窮乏状態を巧みに利用してこれを実現します。相手の経済的困窮状態につけ入るという、国内・国際権力力学に常にみられるやり口です。㋑については、(㋒とも関連しますが)まず山嵐と坊っちゃんとの離間を図り、孤立化政策(「分割して統治せよ Divide et impera」)を実施します(ただこれは結局失敗します)。つぎに弟を使者にして中学・師範喧嘩騒動に山嵐を巻き込み、彼を辞職に追い込んでこれを実現します。

㋒について以下で少しみていきますが、多少遠回りし、赤シャツについて考えてみたいと思います。


(3)赤シャツはなぜ赤シャツか

a)赤という色
帝大卒の文学士である赤シャツは、赤は体に良いという理由で暑い季節でもかまわず毛織物の赤シャツを着ています(同書268頁)。なぜ赤なのでしょうか。

彼は雑誌「帝国文学」という東京帝国大学文科系の機関紙を取り寄せ、自宅ではなくわざわざ学校で有難ありがたそうに読んでいます。実はこの雑誌の表紙が赤なのです(同書300-301頁)。見せびらかし他者を威嚇する《虚栄》の赤です。

そして《嘘》。坊っちゃんからすれば、赤シャツは「よく嘘をつく男」です(同書341頁)。嘘の色はもちろん真っ赤です。


b)周到徹底な謀略と巧みな論法
赤シャツが繰り出す策略は周到で徹底しており、気まぐれな悪戯心いたずらごころに由来するものでも、中途半端なお遊びでもありません。本気です。マドンナを奪うために、先祖伝来の屋敷で母親と暮らすうらなり君の生活を破壊することも意に介さず、より片田舎へ転任させ完全に排除します。悪心を見抜いている山嵐を嵌めて退職に追いこむため、弟を絡めての証拠を残さないそのやり口は、学生同士の喧嘩騒乱と新聞による世論扇動という不安定物までも利用しており、大胆不敵なものです(やはり赤シャツは謀略の経験値を積んでいると思われます。それはおそらくは、坊っちゃんの「前任者」(同書305頁)を相手に仕掛けた謀略戦で培ったものでありましょう)。

赤シャツが、抗議や詰問する山嵐や坊っちゃんの主張をはねのけ、あるいは言い逃れる際に使う言論はかなり高度であり、その論法は巧みな論理展開をみせています。

赤シャツがマドンナの遠山家に入り込み手をまわし彼女を手馴付てなづけて、うらなり君からマドンナを引き剥がすことに成功しつつあるという《実質面》を論難する山嵐に対し、赤シャツは、“うらなり君とマドンナとの間に婚約があるのに自分が嫁にもらうことはなく、破約になったら嫁にもらうかもしれないという状況に過ぎない“、“遠山家と社会的交際をしているだけで、どうして私がうらなり君に悪いことをしたということになるのか”と《形式面》を盾にしてはね返します(同書329頁)。

また、「…あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞こえるが、そう云う意味に解釈して差支えないでしょうか」と坊っちゃんに切り返すその論法は、パワハラ風であるのはもとより、《あなたは私を信じられないと私に面と向かって言っているのですよ。悪いと思わないのですか》という、相手に罪悪感を生じさせようとする《モラハラ》の典型的な言い方です(同書350頁)。

あるいは、うらなり君(古賀君)の意に反する転任によって自分の俸給が上がるという因果連関自体に拒否反応を示す坊っちゃんの《深層の論理》を無視して、「…君の増給は古賀君の所得を削って得たものではないでしょう。古賀君は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが古賀君より多少低給で来てくれる。その剰余を君に廻すと云うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡で只今よりも栄進される、新任者は最初からの約束で安くくる。それで君が上がられれば、これほど都合のいい事はないと思うのですがね。…」と《表層の論理》で攻める(同書351-352頁)。

さらには、中学の教師は社会の上流に位置するので品性のよろしくない場所に出入りすべきではないと教員会議で公言していた赤シャツが、宿屋兼料理屋の角屋かどやに芸者と一緒に泊まったことを山嵐が突くと、赤シャツは、“角屋には泊まったが、芸者と泊まった証拠がどこにある”と言って、教員会議での公言との矛盾という論点を意図的に隠してしまいます。《論点ずらし》によるすり抜けもなかなか堂に入っています(同書395-396頁)。


c)情念の根元
赤シャツの情念はなぜ謀略に向かうのでしょうか。

赤シャツは弟と二人で家賃9円50銭の一戸建てに住んでいます(同書342頁)。ということは実家ではない。坊っちゃんと同様、故郷を離れ就職のために嫌々この田舎に来たが、教頭になり給料も良くなったのでふるさとから弟を呼び寄せ同居してきた、と想像することもできるかと思います(坊っちゃんも赤シャツが住む家を見て、「田舎へ来て九円五拾銭払えばこんな家へはいれるなら、おれも一つ奮発して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろうと思ったくらいな玄関だ」(同書342頁)と言い、何か相同性を感じる言い方をしています)。つまり、赤シャツはもとよりこの町に嫌々生きているように思えるのです。そうしたくさくさした心が行き場所を求めて蠢き、あらぬ場所に噴出箇所を見つけては奔流となって襲うことは、人間心理にとっては当然ありうることです。

赤シャツの舶来の知識は、雑誌「帝国文学」から来ていると山嵐は言います(同書300頁)。では赤シャツは小説や詩などの創作活動に打ち込み、この雑誌に投稿しているのでしょうか。赤シャツが新体詩や俳句をやっている可能性は見え隠れするのですが(同書322頁、344頁)、「帝国文学」に掲載されたことを自慢しているというような記述はなく、掲載実績はどうやらなさそうです。文学作品への創作意欲を物語るエピソードもなく、やはり彼は創作執筆に打ち込んではいない気がします。教育という聖業に打ち込んでいる様子はさらさらありません。つまり、謀略の他に自身の全力を打ち込むものがないと思われるのです。自分の力を発揮し己の力を実感する対象を求めて、エネルギーは陶然と流れ出します。

創造することのできない人は破壊したいと願う。…(中略)…われわれが観察できるさまざまな形のサディズムはすべて、ひとつの主要な衝動へ還元できる。すなわち他人を完全に支配し、かれを自分の意志のままになる無力なものとし、かれの神となり、かれを自分の望み通りに従わせることがそれである。かれを屈服させ、奴隷とするのはこの目的を達する手段であり、最も極限の目的は彼を苦しませることである。

エーリッヒ・フロム(鈴木重吉 訳)『悪について』30-31頁,紀伊國屋書店,1965


(4)人を釣る — ㋒坊っちゃんを目標達成のために利用する

a)耳に注ぐ毒
「君りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた」(同書294頁)。これが赤シャツの坊っちゃんへ仕掛ける罠の着手です。

なぜ釣りに誘うのでしょうか。

坊っちゃんが釣りの経験に乏しいことから、赤シャツは、“よければ教えますよ”と言う。坊っちゃんは、きっと行けば釣りの腕前を自慢され、行かなければ下手だから行かないのだとさげすむつもりだろうと考えますが(同書295頁)、外れていました。小船で海に出れば他に逃げ場所はありません。周りは海と空、他者に聞かれる心配もない。罠にかけるために最適なシチュエーションです。そのために釣りに誘うというわけです。

わかったかな、うそをえさに、まことのこいりあげようという寸法さ。万事このとおり、われら、智慧ちえと先見の明を誇るものはだ、つねに直説法を避ける。間接に、搦手からめてから攻めたてて、かならず獲物えものをしとめるのだ。

シェイクスピア(福田恆存 訳)『ハムレット』55頁(新潮文庫,2010)

赤シャツは野だと図って餌をまきます。名指しせずに山嵐への《疑惑》という毒を坊っちゃんの耳に注ぎ込む(同書300-302頁、304-306頁)。周りから搦手からめてで攻めるのが間接法を信条とする策士のやり方なのです。

その間、おれはムーアの耳に毒薬を注ぎこんでやる、奥方があの男を呼びもどそうとなさるのは、ほかでもない、御自分の欲からなのだとな。そうすれば、女が奴のために躍起になればなるほど、ムーアの信用を損うことになる。あの女の善意を変じて毒と化すというわけさ。こうして、あの女のなさけの糸で網を張って、一挙に獲物えものを引上げてやろうという腹づもり。

シェイクスピア(福田恆存 訳)『オセロー』85頁(新潮文庫,2011)



「赤シャツに勧められてつりに行った帰りから、山嵐を疑り出した」(同書340頁)とあるように、坊っちゃんの耳に注ぎこまれた毒は一時は効果を発揮しますが、山嵐の感心な言動を見聞きしたことに加え、赤シャツがマドンナを連れて散歩したのを見て、またこれを否定する赤シャツの嘘に突き当り(同書340-341頁)、「おれはこの時からいよいよ赤シャツを信用しなくなった」(同書342頁)のですから、山嵐との離間策として坊っちゃんを釣る計略は失敗に終わったようです。


b)毒まんじゅう
赤シャツは、うらなり君関係で別方向から坊っちゃんを釣ろうとします。その釣り餌は、俸給の増加です。

うらなり君転任の正式発表前に、赤シャツは坊っちゃんを呼んで、俸給増加の方針を告げます。俸給増加が可能となる理由は、うらなり君が転任するから、です(同書343頁)。うらなり君の転任は、赤シャツにとってもっとも重要な戦略目標です。その転任が現実のものとなると、俸給増加という坊っちゃんの利得も現実のものとなる、という投げかけをしているわけです。これにより坊っちゃんは、うらなり君の転任を推奨する立場に立つ、と赤シャツは踏んでいたようです。

仮に、うらなり君の本意に基づかいない転任であったと、後に坊っちゃんが知っても、赤シャツにはそれほど痛手ではありません。毒まんじゅうは、あとで毒だったと気付くかどうかはさほど重要ではなく、それを食べたことが重要だからです。うらなり君の犠牲のうえで上がった給料をもらった身は、もはやうらなり君を助ける側には回れないのです。

さらにこの毒まんじゅうには、生地に練り込まれた毒までありました。山嵐排除後に、数学教科主任の後釜を坊っちゃんに担わせるという含意です(赤シャツの言いぶりは極めてあいまいで匂わせにとどまっていますが。同書344頁)。これも同じく、赤シャツにとって重要な戦略目標である山嵐退職と、俸給増加という坊っちゃんの利得とが連動している可能性を示唆するものになります。また、離間策の延長線ということもいえます。

毒まんじゅうは食べたときにはもう遅い。幸い、坊っちゃんは食べて飲み込む前に、その日のうちに吐き出したようです(同書348-353頁)。



3 漱石の罠 可能性の世界

(1)読みの切り替え

以上、一般的な理解を前提に、赤シャツの罠を中心に作品をみてきました。

ただ、偉大な文学は常に別様の読みに開かれているように思われます。そこで以下、あえて裏からひねくれて読んでみたいと思います。そこには漱石の密やかなメッセージが込められているように感じるからです。


(2)書かれていないこと

「読むときは、何が書かれているかだけではなく、何が書かれていないかを見抜かなければならない」というのは、やはり文章を読み解く際の鉄則のようです。

この小説において、書かれていないこととは何でしょうか。

この小説には大変に不思議なことがあります。それは、第一に《被害者たるうらなり君の被害申告》がないこと、第二に《加害者たる赤シャツの自白》がないことです。書かれていないのです(なお、マドンナの発言が一切ないことも付記しておきます)。

うらなり君が、赤シャツにマドンナを奪われ酷いことをされたとか、事実上強制的に転任させられるのだとかを坊っちゃんに言い募る場面がありません。うらなり君と坊っちゃんは接点がありますので、物語構成上、書こうと思えばいくらでも書けるはずです。

また、赤シャツと野だとの謀議があったことを匂わせる場面だけではなく、謀議を図っているところを坊っちゃんが偶然聞くというような場面も、いくらでも書けたはずです。物語の最後に、山嵐と坊っちゃんが暴力で赤シャツに迫っていますから、赤シャツに自白を強要する場面などは、ごく自然に導けたはずです。

なのに漱石は書かない。

先に確認した一般的理解に従えば、物語上、当然に書いてあっていい二つの要素です。「被害と加害」はこの物語の中心軸であり、その当事者である者の直接証言が何より重要なものであることは論を待ちません(*2)。被害の深刻な実態と、悪辣な加害の自白があって初めて、山嵐と坊っちゃんの天誅たる暴力の非倫理性は中和され、スカッとした読後感をもたらすという構造のはずです。それなのに、うらなり君の被害申告と赤シャツの自白がないのです。

そうすると、私たちが思い込んでいた前記「被害と加害」の基本構造が、実は確かな基盤に乗ったものではなかったのではないか、という疑問が生じてきます。

この点をめぐり、すこし考えてみたいと思います。



(3)山嵐が嘘をついている《可能性》、つまり赤シャツが謀略をしていない《可能性》

a)根拠の二源泉
一般的な読みで確認した赤シャツの謀略、彼がこの悪辣な加害を行ったという物語上の根拠は、大きく《下宿先の萩野の婆さんの話》と、これを物語の後半に裏付けるように述べる《山嵐の話》の二つです(そのほか、匂わせはいくらでもありますが、証拠力はいずれも低いと思います)。


b)下宿先の萩野の婆さんの話
萩野の婆さんは二回に分けて、次のことを坊っちゃんに言います。

一回目を見てみます(同書325-330頁)。
○ マドンナはうらなり君のところへ嫁に行く約束ができていた。
○ ところが赤シャツがマドンナをぜひ嫁に欲しいと言い出した。
○ 赤シャツは、マドンナの遠山家に出入りをし、マドンナを手馴付けてしまった。
○ これについて山嵐が赤シャツに意見してから、二人の折合いが悪くなった。
○ マドンナは不慥ふたしかである。

さて、萩野の婆さんは、なぜ上記の事柄を知っているのでしょうか。

彼女は言います。「赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お嬢さんもお嬢さんじゃてて、みんなが悪く云いますのよ」(同書329頁)、「…堀田さんも仕方がなしにお戻りたそうな。赤シャツさんと堀田さんは、それ以来折合がわるいと云う評判ぞなもし」(同書329頁)、「狭いけれ何でも分かりますぞなもし」(同書330頁)。これらの言葉遣いをみる限り、彼女の情報はおよそすべて伝聞に基づくと考えるべきではないでしょうか。彼女自身が直接にうらなり君なり赤シャツから聞き取ったこととは到底思われない言いぶりです。仮に、直接両人から彼女が聞いた話であったとしても、坊っちゃんに伝えた時点で(つまり坊っちゃんの認識世界を見ている私たち読者にとっては)いわゆる伝聞となります(*3)。いわゆる、また聞き、噂話の類です。


次に、二回目をみてみましょう(同書345-348頁)。
○ うらなり君のお母さんが、校長に月給増加のお願いをした。
○ うらなり君は後日校長より、“延岡に空きができ、そこでは5円増給となる。転任の手続きをしたから行くといい”と命じられた。うらなり君は、月給が増すより、屋敷もあるし母もいるからこのままここに居たいと言ったが、もう決まっていることだからと校長に拒否された。

上記のことを萩野の婆さんが知っているのは、「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」(同書346頁)とあるように、うらなり君の母親から聞いたからです。つまり、ここでも彼女はうらなり君から直接聞いていない。先と同様、仮に彼女がうらなり君から直接聞いた話であったとしても、坊っちゃんに伝えた時点で、坊っちゃんの認識世界から見ている私たち読者にとっては伝聞です。あげく「全く赤シャツの作略さくりゃくだね」(同書347頁)と決めつけたのは坊っちゃん当人です。

そもそも、噂話なりまた聞きなりを坊っちゃんに伝える萩野の婆さんの認識力・洞察力は、確かなものでしょうか。

彼女は、坊っちゃんがいつも手紙が来ていないかと聞くので、すでに結婚して奥さんからの手紙をいつも待ち遠しくしている、と自信満々に洞察しますが、見事に外していました(同書326頁)。こうした彼女の話を、私たちは無批判に信じていたということになります。

注意して指摘しておきたいのは、上記で述べたことというのは、「彼女の話が事実に反している」ということではなく、「彼女の話は事実に反している可能性がある」あるいは「彼女の話は事実に合致するところと合致しないところがある可能性がある」ということです。真相は霧に包まれているのです。


c)山嵐の話
萩野の婆さんの話を、坊っちゃんと一緒に私たちもそのままうっかり信じてしまうのは、坊っちゃんが物語の後半になるほど山嵐のことを信用し(「感心だ」同書340頁、「山嵐の方がはるかに人間らしい」同書340頁、「余り感心した」同書356頁、「おれは嬉しかった」同書359頁、「よろしい、いつでも加勢する」同書375頁、「万事山嵐の忠告に従う事にした」同書389頁)、そうした中で、萩野の婆さんが言ったことを裏書きする事柄や、赤シャツが謀略をこととする人物であるという趣旨のことを山嵐が坊っちゃんに対して言うからです。

山嵐は坊っちゃんは対し、次のように言います。
○(増給事件と将来重く登用すると赤シャツが言ったと坊っちゃんが言うと)「それじゃ僕を免職する考えだな」(同書355頁)。
○(うらなり君が転任を嫌がっているなら留任を運動してあげなかったのかと坊っちゃんが問うと)「うらなりから話を聞いた時は、既にきまって仕舞って、校長へ二度、赤シャツへ一度行って談判してみたが、どうする事も出来なかった」「それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。赤シャツから話があった時、断然断わるか、一応考えてみますと逃にげればいいのに、あの弁舌に胡魔化ごまかされて、即席に許諾したものだから、あとからお母さんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかった」(同書356頁)。
○(今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうと坊っちゃんが言うと)「無論そうに違いない。あいつは大人しい顔をして、悪事を働いて、人が何か云うと、ちゃんと逃道をこしらえて待ってるんだから、よっぽど奸物かんぶつだ。あんな奴にかかっては鉄拳制裁でなくっちゃ利かない」(同書356頁)。
○「君赤シャツは臭いぜ、用心しないとやられるぜ」、「君まだ気が付かないか、きのうわざわざ、僕等を誘い出して喧嘩のなかへ、捲まき込こんだのは策だぜ」、「ああやって喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を廻してあんな記事をかかせたんだ。実に奸物かんぶつだ」、(しかし新聞が赤シャツの言うことをそうたやすく聞くのかと問う坊っちゃんに)「聴かなくって。新聞屋に友達が居りゃ訳はないさ」、(友達がいるのかと問う坊っちゃんに)「居なくても訳ないさ。嘘をついて、事実これこれだと話しゃ、すぐ書くさ」(同書384-385頁)。


上記のうち2点目をみると、山嵐と萩野の婆さんの話が微妙に違っています(伝聞とはそういうものです)。

最後の点をみると、中学・師範喧嘩騒動に関する山嵐による赤シャツ謀略説の断定には、ほぼ根拠がないことが分かります。論拠薄弱な推測に基づいて坊っちゃんに言っているのです。

また、山嵐は、自分の辞職のきっかけとなる中学・師範喧嘩騒動が発生する前から、赤シャツを「誅戮ちゅうりく」(罪あるものを殺すこと.同書375頁 脚注)するのだとして暴力を加える意思を固めて、これを坊っちゃんに告げています(同書374頁)。辞職に追い込まれた後(同書390頁)、何ら制裁を受けない赤シャツを許せずに、置土産に天誅をくらわせようと決意するのであればまだ論理が通りますが、暴力の決意はその前なのです。

坊っちゃんはかかる山嵐への信頼を深め親密さを増し、山嵐から聞いた話を無批判に受け入れていく様子がはっきりと描かれています。

萩野の婆さんの話に「0.5」の真実度があるとして、これを裏書きする趣旨の山嵐の話の真実度がマイナスであれば(山嵐が嘘をついていれば)、あるいは百歩譲って「0.5」であれば、掛け算をするとその信用度はマイナスか、あるいは「0.25」となって、当初の婆さんの話より低くなってしまいます。

前述した一般的理解に立つということは、私たちは蛮勇を振るってそれを信じようというわけです。


d)その他の源泉
補足的に述べておきたい点があります。

一つは、赤シャツの嘘を坊っちゃんが直接に確認したとする「赤シャツ・マドンナ散歩事件」です。

坊っちゃんは、この散歩を赤シャツが否定したので、この機を境に急速に彼への信用を無くし、他方で山嵐の見方への同調を深めていきます。したがって、この事件は重要ではあります。

もっとも前提として、赤シャツがこの点について嘘をついたとしても、それが、赤シャツが謀略の実行者であるということを立証する、という関係にはありません。当然ですが「Aという嘘をついたから、Bという謀略をしたに違いない」という推論は成り立たないからです(刑事訴訟では「悪性格の立証」の問題)。

さて、振り返ってみますと、坊っちゃんは、本当に赤シャツとマドンナの散歩を目撃したといえるのでしょうか。

同書338-339頁が描いているのは次のことです。
【月が、歩く坊っちゃんの後ろから前方を照らしている。坊っちゃんの前に、歩いている一組の男女らしい姿が見えてくる。ふとその男が振り返り坊っちゃんを見て、坊っちゃんは「はてな」と思うが、男はまた前をみて歩きだす。二人を追い越し際に坊っちゃんがぐるりと振り返り、男の顔を覗き込む。そのとき月明りは坊っちゃんの顔面を正面から照らした(つまり男の顔は暗い、はず)。男は「あっ」と小声を出し、急に横を向き、女を促して引き返して行った】

さてどうでしょうか。坊っちゃんは、月明りの逆光のなか、その男の顔を明確に識別し、赤シャツであると同定したのでしょうか、同定できたのでしょうか。服装の記述もなく、トレードマークの赤いシャツで識別同定したのでもない。何か不透明な釈然としないものを感じますし、この状況の書きぶりに、漱石の深甚なる意図を感じないわけにはいきません。


二つ目に、山嵐と坊っちゃんに天誅を加えられた赤シャツと野だが、警察に訴え出なかったことです(同書397頁)。不法な暴力を受けたのですから、当然に警察に訴えて二人の逮捕を求めるべきところ、訴え出なかったのは、やはり赤シャツと野だに後暗いところがあり、翻ってこれが彼らが謀略を行ってきた証拠だ、という見方です。

ただ、これも証拠力は極めて弱いと思います。暴力を受けて、警察に訴え出ない理由や事情など無数にあるからです。


e)まとめ
以上のように見てくると、《赤シャツの謀略》については、萩野の婆さんの話は伝聞で信用度が低く、これを裏付けることを言う山嵐の話には根拠薄弱な点が混じっており、赤シャツに天誅をくらわせることが当初から主眼となっているために山嵐は坊っちゃんに対して嘘を言っている可能性さえあり、赤シャツの謀略を直接に立証する証拠(うらなり君の被害申告と赤シャツの自白)はなく、そのほか間接的に推認させる証拠もないか、あってもその証拠力が極めて弱い、ということにならないでしょうか。

そうであれば、うらなり君と赤シャツの「被害と加害」の基本構造自体が成立しないこととなり、山嵐と坊っちゃんの行動は、天誅を気取った単なる勘違いに基づく暴行ないし傷害事件であった、ということになります。



4 おわりに

一般的な読み方が間違っているなどと言いたいのでは全くありません。むしろ、そうではない読み方が《可能》であり、別様な見方に開かれているがゆえに不確かであるという世界像こそ、漱石が読者に突き付けた含意であると思うのです。

「不透明で曖昧な意図と行動様式をとる人々が目まぐるしく動き回り、とうてい一筋縄ではつかみ難い様相を呈するのが私たちが生きるこの現実社会であり、その中をもがきながら生きゆけ」というメッセージを読み取ることもできるのではないでしょうか。





*1 この前提には、赤シャツが野だと共謀しながら謀略を実行した悪者であり、山嵐と坊っちゃんがこれに正義の鉄槌を下すという基本構造のもと、下宿先の萩野の婆さんと山嵐が坊っちゃんに話した内容が真実である、ということが含まれています。
*2 この物語の構成上の話です。法律上は物的証拠が何より重要です(木庭顕『誰のために法は生まれた』47頁(朝日出版社,2018)、同『笑うケースメソッドⅢ 現代日本刑事法の基礎を問う』78頁、95-98頁(勁草書房,2019)参照)。理由としては、物証は、記号である当該物証のシニフィアンが呼び出すシニフィエ、この両者の関係が説明できる結びつきを有しているから(他方、言語(つまり供述)は、記号たる当該言語のシニフィアンがシニフィエを呼び出すところ、この両者の関係が恣意的なので、結びつきの論拠が範型に依存してしまうから)、と指摘されています。
*3 正確には再伝聞だと思いますが、日常用語的にいわゆる「伝聞」としておきます。



【雑多メモ】
・好きな坊っちゃんの言葉 「どうしていいか分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る」(同書292頁)。
・校長はその名も狸であるから、表の顔や裏の顔のみならず、横の顔までありそうです。赤シャツや野だとどこまで共謀していたのか、知りながら容認していたのか、知って何もできないのか、それともほとんど知らないのか、まったく不明です。
・言葉の論理に対する鋭利な問題意識が何度も出てきます(同書317-318、352、369-370、386-387頁等)。だから力だ、だから戦争が絶えない、という大きすぎる問題まで指摘されています(同書386頁)。
・「夏目漱石の坊っちゃんのように、間違った事が大嫌いで義憤に駆られ、損ばかりする行動様式に脳内セロトニンが関与」という研究があるようです。
・エーリッヒ・フロムの知見を援用すれば、創造的・生産的行為ができないがゆえに代用を求める補償的な暴力は、挫折させられた願望や欲望が生みだす。屈折した情念が加虐を愛好していく。帝大卒の赤シャツはなぜ四国の中学校(当時のエリート校)にいるのか、がポイントになると思います(テクストからは読みとり難いが、推測はできるかもしれません)。





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