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滑らかな変化

写真と俳句 その四十八

2024.07.23(火)



 暑中お見舞い申し上げます

 毎日、暑い日が続いています。今年は、梅雨入りが遅くて、なんだか身体が追いついていかないように感じます。
 熱中症になりやすいので、水だけでなく、塩分・ミネラルをお忘れなく。

 父も私も夏生まれのせいか、暑い夏には割と強く、「夏は暑いものだ」と活動的になっておりました。名古屋の夏は、特別で、太陽が他の地域より近いのではないだろうかと思うほど、日差しが強いです。
 しかし東京も、毎年 暑くなっている気がします。木々を増やしたいものですね。



「方丈記」 鴨 長明


下鴨神社にある復元された「長明の方丈」です。2014.7.17撮影。2022年、復元された方丈庵は、河合神社境内より、下鴨神社糺の森に移設されたそうです。詳細は下鴨神社の摂社 河合神社へお問い合わせください。https://www.shimogamo-jinja.or.jp/bireikigan/
長明の方丈 復元
下鴨神社 河合神社
2014.7.17

2022年、復元された方丈庵は、河合神社境内より、下鴨神社糺の森に移設されたそうです。
詳細は、下鴨神社の摂社 河合神社へお問合せください。
https://www.shimogamo-jinja.or.jp/bireikigan/


 皆様よくご存知の「方丈記」。冒頭の文だけでも充分ではないかと思えます。
 変わらないように見える日常の一つ一つ。しかし、水の流れのように、この世に変わらないものなど何もなくて、全ては常に変化しています。そして、やがては滅んでいってしまう。だからこそ、執着することなく、一つ一つを、今を、大切にしていきたいと思います。
 そうはわかっていても…何か意味を見出したいと思ってしまう。
 人から離れた鴨長明が考え抜いたその先は・・・。

 末尾にある歌は、鴨長明によって詠まれたものではなく、源季広の歌で、「新勅撰集」にあるものだそうですが、鴨長明自身が加えたものなのか、後に加えられたものなのかは、わかっていないようです。
 源季広は、鴨長明と同時代の歌人です。この歌は、「新勅撰集」の釈教部に、阿弥陀仏である十二光仏を詠んだものとして入っているようなので、鴨長明の心と合致して、ご本人が加えたのかもしれません。

月かげは 入る山の端も つらかりき たえぬひかりを みるよしもがな 
源 季広 (みなもとのすえひろ)

 ああ、月の光は山の端に隠れてしまった 
 絶えぬ光をみていられたらなぁ

筆者解釈


「大福光寺本」鎌倉前期写伝 鴨長明自筆Wikipediaより
大福光寺本
鎌倉前期写
伝 鴨長明自筆
Wikipedia


方丈記 鴨長明村上平楽寺 正保四年 [1647年]インターネット公開(保護期間満了)国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/
方丈記 鴨長明
村上平楽寺 
正保四年 [1647年]
インターネット公開(保護期間満了)
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/



方丈記
鴨 長明

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。

知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』





およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。

いにし安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。

火本は樋口富の小路とかや、病人を宿せるかりやより出で來けるとなむ。吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如くすゑひろになりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくくれなゐなる中に、風に堪へず吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。その中の人うつゝ(しイ)心ならむや。あるひは煙にむせびてたふれ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。或は又わづかに身一つからくして遁れたれども、資財を取り出づるに及ばず。七珍萬寳、さながら灰燼となりにき。そのつひえいくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち、三分が二(一イ)に及べりとぞ。男女死ぬるもの數千人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。

人のいとなみみなおろかなる中に、さしも危き京中の家を作るとて寶をつひやし心をなやますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍るべき。』

また治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき。

三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるもちひさきも、一つとしてやぶれざるはなし。さながらひらにたふれたるもあり。けたはしらばかり殘れるもあり。又門の上を吹き放ちて、四五町がほど(ほかイ)に置き、又垣を吹き拂ひて、隣と一つになせり。いはむや家の内のたから、數をつくして空にあがり、ひはだぶき板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなりとよむ音に、物いふ聲も聞えず。かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。

家の損亡するのみならず、これをとり繕ふ間に、身をそこなひて、かたはづけるもの數を知らず。この風ひつじさるのかたに移り行きて、多くの人のなげきをなせり。

つじかぜはつねに吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず。さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし。』

又おなじ年の六月の頃、にはかに都うつり侍りき。いと思ひの外なりし事なり。

大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に數百歳を經たり。異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、たやすからずうれへあへるさま、ことわりにも過ぎたり。

されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、大臣公卿ことごとく攝津國難波の京に(八字イ無)うつり給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰かひとりふるさとに殘り居らむ。官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも、とくうつらむとはげみあへり。時を失ひ世にあまされて、ごする所なきものは、愁へながらとまり居れり。軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆あらたまりて、たゞ馬鞍をのみ重くす。牛車を用とする人なし。西南海の所領をのみ願ひ、東北國の庄園をば好まず。

その時、おのづから事のたよりありて、津の國今の京に到れり。所のありさまを見るに、その地ほどせまくて、條里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。なみの音つねにかまびすしくて、潮風殊にはげしく、内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて、いうなるかたも侍りき。日々にこぼちて川もせきあへずはこびくだす家はいづくにつくれるにかあらむ。なほむなしき地は多く、作れる屋はすくなし。ふるさとは既にあれて、新都はいまだならず。ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。元より此處に居れるものは、地を失ひてうれへ、今うつり住む人は、土木のわづらひあることをなげく。道のほとりを見れば、車に乘るべきはうまに乘り、衣冠布衣なるべきはひたゝれを着たり。都のてふりたちまちにあらたまりて、唯ひなびたる武士にことならず。これは世の亂るゝ瑞相とか聞きおけるもしるく、日を經つゝ世の中うき立ちて、人の心も治らず、民のうれへつひにむなしからざりければ、おなじ年の冬、猶この京に歸り給ひにき。されどこぼちわたせりし家どもはいかになりにけるにか、ことごとく元のやうにも作らず。

ほのかに傳へ聞くに、いにしへのかしこき御代には、あはれみをもて國ををさめ給ふ。則ち御殿に茅をふきて軒をだにとゝのへず。煙のともしきを見給ふ時は、かぎりあるみつぎものをさへゆるされき。これ民をめぐみ、世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。』

又養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず、二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ事どもうちつゞきて、五※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、544-14]ことごとくみのらず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋かり冬收むるぞめきはなし。

これによりて、國々の民、或は地を捨てゝ堺を出で、或は家をわすれて山にすむ。さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれども、さらにそのしるしなし。京のならひなに事につけても、みなもとは田舍をこそたのめるに、絶えてのぼるものなければ、さのみやはみさをも作りあへむ。念じわびつゝ、さまざまの寳もの、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目みたつる人もなし。たまたま易ふるものは、金をかろくし、粟を重くす。乞食道の邊におほく、うれへ悲しむ聲耳にみてり。

さきの年かくの如くからくして暮れぬ。明くる年は立ちなほるべきかと思ふに、あまさへえやみうちそひて、まさるやうにあとかたなし。世の人みな飢ゑ死にければ、日を經つゝきはまり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。はてには笠うちき、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひありく。かくわびしれたるものどもありくかと見れば則ち斃れふしぬ。ついひぢのつら、路頭に飢ゑ死ぬるたぐひは數もしらず。取り捨つるわざもなければ、くさき香世界にみちみちて、かはり行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。いはむや河原などには、馬車の行きちがふ道だにもなし。しづ、山がつも、力つきて、薪にさへともしくなりゆけば、たのむかたなき人は、みづから家をこぼちて市に出でゝこれを賣るに、一人がもち出でたるあたひ、猶一日が命をさゝふるにだに及ばずとぞ。あやしき事は、かゝる薪の中に、につき、しろがねこがねのはくなど所々につきて見ゆる木のわれあひまじれり。これを尋ぬればすべき方なきものゝ、古寺に至りて佛をぬすみ、堂の物の具をやぶりとりて、わりくだけるなりけり。濁惡の世にしも生れあひて、かゝる心うきわざをなむ見侍りし。』

又あはれなること侍りき。さりがたき女男など持ちたるものは、その思ひまさりて、心ざし深きはかならずさきだちて死しぬ。そのゆゑは、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふかたに、たまたま乞ひ得たる物を、まづゆづるによりてなり。されば父子あるものはさだまれる事にて、親ぞさきだちて死にける。又(父イ)母が命つきて臥せるをもしらずして、いとけなき子のその乳房に吸ひつきつゝ、ふせるなどもありけり。

仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ、かずしらず死ぬることをかなしみて、ひじりをあまたかたらひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁をむすばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百あまりなむありける。いはむやその前後に死ぬるもの多く、河原、白河、にしの京、もろもろの邊地などをくはへていはゞ際限もあるべからず。いかにいはむや、諸國七道をや。

近くは崇徳院の御位のとき、長承のころかとよ、かゝるためしはありけると聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたりいとめづらかに、かなしかりしことなり。』

また元暦二年のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。或はくづれ、或はたふれた(ぬイ)る間、塵灰立ちあがりて盛なる煙のごとし。地のふるひ家のやぶるゝ音、いかづちにことならず。家の中に居れば忽にうちひしげなむとす。はしり出づればまた地われさく。羽なければ空へもあがるべからず。龍ならねば雲にのぼらむこと難し。おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。

その中に、あるものゝふのひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、ついぢのおほひの下に小家をつくり、はかなげなるあとなしごとをして遊び侍りしが、俄にくづれうめられて、あとかたなくひらにうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりうち出されたるを、父母かゝへて、聲もをしまずかなしみあひて侍りしこそあはれにかなしく見はべりしか。子のかなしみにはたけきものも耻を忘れけりと覺えて、いとほしくことわりかなとぞ見はべりし。

かくおびたゞしくふることはしばしにて止みにしかども、そのなごりしばしば絶えず。よのつねにおどろくほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやうまどほになりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。

四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。むかし齊衡のころかとよ。おほなゐふりて、東大寺の佛のみぐし落ちなどして、いみじきことゞも侍りけれど、猶このたびにはしかずとぞ。すなはち人皆あぢきなきことを述べて、いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし。』

すべて世のありにくきこと、わが身とすみかとの、はかなくあだなるさまかくのごとし。いはむや所により、身のほどにしたがひて、心をなやますこと、あげてかぞふべからず。

もしおのづから身かずならずして、權門のかたはらに居るものは深く悦ぶことあれども、大にたのしぶにあたはず。なげきある時も聲をあげて泣くことなし。進退やすからず、たちゐにつけて恐れをのゝくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし貧しくして富める家の隣にをるものは、朝夕すぼき姿を耻ぢてへつらひつゝ出で入る妻子、僮僕のうらやめるさまを見るにも、富める家のひとのないがしろなるけしきを聞くにも、心念々にうごきて時としてやすからず。もしせばき地に居れば、近く炎上する時、その害をのがるゝことなし。もし邊地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなれがたし。いきほひあるものは貪欲ふかく、ひとり身なるものは人にかろしめらる。寶あればおそれ多く、貧しければなげき切なり。人を頼めば身他のやつことなり、人をはごくめば心恩愛につかはる。世にしたがへば身くるし。またしたがはねば狂へるに似たり。いづれの所をしめ、いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし玉ゆらも心をなぐさむべき。』




我が身、父の方の祖母の家をつたへて、久しく彼所に住む。そののち縁かけ、身おとろへて、しのぶかたがたしげかりしかば、つひにあととむることを得ずして、三十餘にして、更に我が心と一の庵をむすぶ。これをありしすまひになずらふるに、十分が一なり。たゞ居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を造るにおよばず。わづかについひぢをつけりといへども、門たつるたづきなし。竹を柱として、車やどりとせり。雪ふり風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所は河原近ければ、水の難も深く、白波のおそれもさわがし。

すべてあらぬ世を念じ過ぐしつゝ、心をなやませることは、三十餘年なり。その間をりをりのたがひめに、おのづから短き運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかへて、家をいで世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿あらず、何につけてか執をとゞめむ。むなしく大原山の雲にふして、またいくそばくの春秋をかへぬる。』

こゝに六十の露消えがたに及びて、さらに末葉のやどりを結べることあり。いはゞ狩人のひとよの宿をつくり、老いたるかひこのまゆをいとなむがごとし。これを中ごろのすみかになずらふれば、また百分が一にだもおよばず。とかくいふ程に、よはひは年々にかたぶき、すみかはをりをりにせばし。その家のありさまよのつねにも似ず、廣さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。所をおもひ定めざるがゆゑに、地をしめて造らず。土居をくみ、うちおほひをふきて、つぎめごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬことあらば、やすく外へうつさむがためなり。そのあらため造るとき、いくばくのわづらひかある。積むところわづかに二輌なり。車の力をむくゆるほかは、更に他の用途いらず。

いま日野山の奧にあとをかくして後、南にかりの日がくしをさし出して、竹のすのこを敷き、その西に閼伽棚を作り、うちには西の垣に添へて、阿彌陀の畫像を安置したてまつりて、落日をうけて、眉間のひかりとす。かの帳のとびらに、普賢ならびに不動の像をかけたり。北の障子の上に、ちひさき棚をかまへて、黒き皮籠三四合を置く。すなはち和歌、管絃、往生要集ごときの抄物を入れたり。傍にこと、琵琶、おのおの一張をたつ。いはゆるをりごと、つき琵琶これなり。東にそへて、わらびのほどろを敷き、つかなみを敷きて夜の床とす。東の垣に窓をあけて、こゝにふづくゑを出せり。枕の方にすびつあり。これを柴折りくぶるよすがとす。庵の北に少地をしめ、あばらなるひめ垣をかこひて園とす。すなはちもろもろの藥草をうゑたり。かりの庵のありさまかくのごとし。

その所のさまをいはゞ、南にかけひあり、岩をたゝみて水をためたり。林軒近ければ、つま木を拾ふにともしからず。名を外山といふ。まさきのかづらあとをうづめり。谷しげゝれど、にしは晴れたり。觀念のたよりなきにしもあらず。

春は藤なみを見る、紫雲のごとくして西のかたに匂ふ。夏は郭公をきく、かたらふごとに死出の山路をちぎる。秋は日ぐらしの聲耳に充てり。うつせみの世をかなしむかと聞ゆ。冬は雪をあはれむ。つもりきゆるさま、罪障にたとへつべし。もしねんぶつものうく、どきやうまめならざる時は、みづから休み、みづからをこたるにさまたぐる人もなく、また耻づべき友もなし。殊更に無言をせざれども、ひとり居ればくごふををさめつべし。必ず禁戒をまもるとしもなけれども、境界なければ何につけてか破らむ。もしあとの白波に身をよするあしたには、岡のやに行きかふ船をながめて、滿沙彌が風情をぬすみ、もし桂の風、葉をならすゆふべには、潯陽の江をおもひやりて、源都督(經信)のながれをならふ。もしあまりの興あれば、しばしば松のひゞきに秋風の樂をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。藝はこれつたなけれども、人の耳を悦ばしめむとにもあらず。ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから心を養ふばかりなり。』

また麓に、一つの柴の庵あり。すなはちこの山もりが居る所なり。かしこに小童あり、時々來りてあひとぶらふ。もしつれづれなる時は、これを友としてあそびありく。かれは十六歳、われは六十、その齡ことの外なれど、心を慰むることはこれおなじ。あるはつばなをぬき、いはなしをとる(りイ)。またぬかごをもり、芹をつむ。或はすそわの田井に至りて、おちほを拾ひてほぐみをつくる。もし日うらゝかなれば、嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み。木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地はぬしなければ、心を慰むるにさはりなし。あゆみわづらひなく、志遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間にまうで、或は石山ををがむ。もしは粟津の原を分けて、蝉丸翁が迹をとぶらひ、田上川をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。歸るさには、をりにつけつゝ櫻をかり、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉りかつは家づとにす。もし夜しづかなれば、窓の月に故人を忍び、猿の聲に袖をうるほす。くさむらの螢は、遠く眞木の島の篝火にまがひ、曉の雨は、おのづから木の葉吹くあらしに似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、みねのかせきの近くなれたるにつけても、世にとほざかる程を知る。或は埋火をかきおこして、老の寐覺の友とす。おそろしき山ならねど、ふくろふの聲をあはれむにつけても、山中の景氣、折につけてつくることなし。いはむや深く思ひ、深く知れらむ人のためには、これにしもかぎるべからず。




大かた此所に住みそめし時は、あからさまとおもひしかど、今ま(すイ)でに五とせを經たり。假の庵もやゝふる屋となりて、軒にはくちばふかく、土居に苔むせり。おのづから事のたよりに都を聞けば、この山にこもり居て後、やごとなき人の、かくれ給へるもあまた聞ゆ。ましてその數ならぬたぐひ、つくしてこれを知るべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞかりの庵のみ、のどけくしておそれなし。ほどせばしといへども、夜臥す床あり、ひる居る座あり。一身をやどすに不足なし。がうなはちひさき貝をこのむ、これよく身をしるによりてなり。みさごは荒磯に居る、則ち人をおそるゝが故なり。我またかくのごとし。身を知り世を知れらば、願はずまじらはず、たゞしづかなるをのぞみとし、うれへなきをたのしみとす。すべて世の人の、すみかを作るならひ、かならずしも身のためにはせず。或は妻子眷屬のために作り、或は親昵朋友のために作る。或は主君、師匠および財寳、馬牛のためにさへこれをつくる。

我今、身のためにむすべり、人のために作らず。ゆゑいかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、たのむべきやつこもなし。たとひ廣く作れりとも、誰をかやどし、誰をかすゑむ。』

それ人の友たるものは富めるをたふとみ、ねんごろなるを先とす。かならずしも情あると、すぐなるとをば愛せず、たゞ絲竹花月を友とせむにはしかじ。人のやつこたるものは賞罰のはなはだしきを顧み、恩の厚きを重くす。更にはごくみあはれぶといへども、やすく閑なるをばねがはず、たゞ我が身を奴婢とするにはしかず。もしなすべきことあれば、すなはちおのづから身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。もしありくべきことあれば、みづから歩む。くるしといへども、馬鞍牛車と心をなやますにはしか(二字似イ)ず。今ひと身をわかちて。二つの用をなす。手のやつこ、足ののり物、よくわが心にかなへり。心また身のくるしみを知れゝば、くるしむ時はやすめつ、まめなる時はつかふ。つかふとてもたびたび過さず、ものうしとても心をうごかすことなし。いかにいはむや、常にありき、常に働(動イ)くは、これ養生なるべし。なんぞいたづらにやすみ居らむ。人を苦しめ人を惱ますはまた罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。』

衣食のたぐひまたおなじ。藤のころも、麻のふすま、得るに隨ひてはだへをかくし。野邊のつばな、嶺の木の實、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれば、姿を耻づる悔もなし。かてともしければおろそかなれども、なほ味をあまくす。

すべてかやうのこと、樂しく富める人に對していふにはあらず、たゞわが身一つにとりて、昔と今とをたくらぶるばかりなり。

大かた世をのがれ、身を捨てしより、うらみもなくおそれもなし。命は天運にまかせて、をしまずいとはず、身をば浮雲になずらへて、たのまずまだしとせず。一期のたのしみは、うたゝねの枕の上にきはまり、生涯の望は、をりをりの美景にのこれり。』

それ三界は、たゞ心一つなり。心もし安からずば、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望なし。今さびしきすまひ、ひとまの庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でゝは、乞食となれることをはづといへども、かへりてこゝに居る時は、他の俗塵に着することをあはれぶ。もし人このいへることをうたがはゞ、魚と鳥との分野を見よ。魚は水に飽かず、魚にあらざればその心をいかでか知らむ。鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心をしらず。閑居の氣味もまたかくの如し。住まずしてたれかさとらむ。』





そもそも一期の月影かたぶきて餘算山のはに近し。忽に三途のやみにむかはむ時、何のわざをかかこたむとする。佛の人を教へ給ふおもむきは、ことにふれて執心なかれとなり。今草の庵を愛するもとがとす、閑寂に着するもさはりなるべし。いかゞ用なきたのしみをのべて、むなしくあたら時を過さむ。』

しづかなる曉、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむがためなり。然るを汝が姿はひじりに似て、心はにごりにしめり。すみかは則ち淨名居士のあとをけがせりといへども、たもつ所はわづかに周梨槃特が行にだも及ばず。もしこれ貧賤の報のみづからなやますか、はた亦妄心のいたりてくるはせるか、その時こゝろ更に答ふることなし。たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、兩三返を申してやみぬ。

時に建暦の二とせ、彌生の晦日比、桑門蓮胤、外山の庵にしてこれをしるす。

「月かげは入る山の端もつらかりきたえぬひかりをみるよしもがな」。






底本:「國文大觀 日記草子部」明文社
   1906(明治39)年1月30日初版発行
   1909(明治42)年10月12日再版発行
※このファイルは、日本文学等テキストファイル(http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/bungaku.htm)で公開されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、「國文大觀 日記草子部」板倉屋書房、1903(明治36)年10月27日発行を使用しました。
※『方丈記』の本文としては、流布本系である。
※割り注を()に入れました。
※「現在通行字体の〈し〉」「志に由来する変体仮名」ともに、「し」で入力しました。
※監修者、編纂者の没年は以下の通りです。
監修者 本居豊穎 (1913(大正2)年2月15日没)
同   木村正辭 (1913(大正2)年4月10日没)
同   小杉榲邨 (1910(明治43)年3月30日没)
同   井上頼圀 (1914(大正3)年7月3日没)
同  故落合直文 (1903(明治36)年12月16日没)
編纂者 丸岡 桂 (1919(大正8)年2月12日没)
同   松下大三郎(1935(昭和10)年5月2日没)
松下以外の没年月日は講談社学術文庫『大日本人名辞書』による。
松下の没年月日は徳田正信『近代文法図説』(明治書院)による。
編纂者等の著作権は消失している。
入力:岡島昭浩
校正:小林繁雄
2004年6月22日作成

全文
青空文庫
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下鴨神社にある長明の方丈の部屋の中です。桶と柄杓があります。ほとんど何もありません。2014.7.17撮影
長明の方丈
下鴨神社 河合神社
2014.7.17
2022年、復元された方丈庵は、河合神社境内より、下鴨神社糺の森に移設されたそうです。
詳細は、下鴨神社の摂社 河合神社へお問合せください。
https://www.shimogamo-jinja.or.jp/bireikigan/


 長明の方丈

 鴨長明は、五十歳のとき すべての公職から身をひき 大原に隠とんした。その後、世の無情と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。大原からほうぼう転々として、承元二年(1208)、五十八歳のころ(現在 京都市伏見区日野町)に落ち着いた。各地を移動しているあいだに「栖(すみか)」として仕上げたのが、この「方丈」である。移動に便利なようにすべて組立式となっている。

 広さは、一丈(約三メートル)四方。約2.73坪、畳、約五畳半程度。間口、奥行きとも一丈四方というところから「方丈」の名がある。さらにもう一つの特徴は、土台状のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。下鴨神社の本殿もまた土居桁の構造である。
 この構造は、建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。
下鴨神社は、式年遷宮により二十一年ごとに社殿が造替される自在な建築様式にヒントを得たものといわれている。

下鴨神社



下鴨神社にある長明の方丈の部屋の中です。囲炉裏と座布団があります。ほとんど何もありません。2014.7.17撮影
長明の方丈
下鴨神社 河合神社
2014.7.17
2022年、復元された方丈庵は、河合神社境内より、下鴨神社糺の森に移設されたそうです。
詳細は、下鴨神社の摂社 河合神社へお問合せください。
https://www.shimogamo-jinja.or.jp/bireikigan/




「戯作三昧」 芥川 龍之介

 三昧ということは、幸いなことだと思います。スポーツ選手がゾーンに入ったと言われているその感覚も、近いものなのかもしれません。

さんまい【三昧】 〘 名詞 〙 仏語。

① ( [梵語] samādhi の音訳。三摩提・三摩地とも音訳。定・正定・等持などと訳す ) 雑念を離れて心を一つの対象に集中し、散乱しない状態をいう。この状態に入るとき、正しい智慧が起こり、対象が正しくとらえられるとする。三摩堤(さんまだい)。三昧正受。 [初出の実例]「殿下入二三昧定一。敢莫レ奉レ驚」(出典:聖徳太子伝暦(917頃か)下) 「いかめしき堂を建てて、三昧を行ひ」(出典:源氏物語(1001‐14頃)明石)

② 精神を統一、集中することによって得た超能力。 [初出の実例]「途中にして此の二人の沙彌、俄に十八変を現じ、菩薩普現三昧(ざんまい)に入て、光を放て、法を説き、前生の事を現ず」(出典:今昔物語集(1120頃か)三)

③ 物事の奥義を究め、その妙所を得ること。 [初出の実例]「晩来狩野大炊助来云、此五六十日在二大津一。与二京兆一同所。件々彼三昧話レ之。実異人也」(出典:蔭凉軒日録‐長享二年(1488)五月七日)

④ 「さんまいば(三昧場)」の略。 [初出の実例]「さて民部は、なくなくさんまいのかたに行て、むなしきしるしをみるにも」(出典:御伽草子・鳥部山物語(類従所収)(室町末)) 「煙は愁の種なる三昧(さんマイ)を見しに、おほくは少年の塚」(出典:浮世草子・懐硯(1687)四)

⑤ 高野山で、禅侶中六重の階位の一つ。 [初出の実例]「山禅侶之中、有六重階位、所謂阿闍梨、山籠、入寺、三昧、久住者、衆分也」(出典:高野山文書‐承久三年(1221)一〇月晦日・権大僧都静遍奉書)

三昧の語誌
( 1 )日本では、本来、仏教語として、念仏や誦経の場に用い、「阿彌陀三昧」や「法華三昧」といった用い方、また、「三昧」単独で、「一心不乱に仏事を行なうこと」といった用い方が一般的であった。その意味から、②の意味が派生した。
( 2 )①②の意味は仏教的な色彩が濃いが、近世以降、この仏教的色彩から離れて「ある一つのことだけを(好き勝手に)する」「心のままである」といった意味も派生し、「ざんまい」と濁音化して、「放蕩三昧」「悪行三昧」などのように、多く名詞と結びついて用いられるようになった。
→ざんまい(三昧)

精選版 日本国語大辞典



戯作三昧 : 他六篇 (ヴエストポケツト傑作叢書 ; 第3編) 芥川竜之介春陽堂大正十年インターネット公開(保護期間満了)国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp
戯作三昧 : 他六篇 (ヴエストポケツト傑作叢書 ; 第3編)
芥川竜之介
春陽堂
大正十年
インターネット公開(保護期間満了)
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp


戯作三昧
芥川龍之介
・・・・・・・

そうして、濁った止め桶の湯に、鮮(あざや)かに映っている窓の外の空へ眼を落した。そこにはまた赤い柿の実が、瓦屋根の一角を下に見ながら、疎(まば)らに透いた枝を綴(つづ)っている。

 老人の心には、この時「死」の影がさしたのである。が、その「死」は、かつて彼を脅かしたそれのように、いまわしい何物をも蔵していない。いわばこの桶の中の空(そら)のように、静かながら慕わしい、安らかな寂滅(じゃくめつ)の意識であった。一切の塵労(じんろう)を脱して、その「死」の中に眠ることが出来たならば――無心の子供のように夢もなく眠ることが出来たならば、どんなに悦(よろこ)ばしいことであろう。自分は生活に疲れているばかりではない。何十年来、絶え間ない創作の苦しみにも、疲れている。……

 老人は憮然(ぶぜん)として、眼をあげた。あたりではやはり賑(にぎや)かな談笑の声につれて、大ぜいの裸の人間が、目まぐるしく湯気の中に動いている。柘榴口(ざくろぐち)の中の歌祭文(うたざいもん)にも、めりやすよしこのの声が加わった。ここにはもちろん、今彼の心に影を落した悠久(ゆうきゅう)なものの姿は、微塵(みじん)もない。

・・・・・・


「これは昨日(きのう)描(か)き上げたのですが、私には気に入ったから、御老人さえよければ差し上げようと思って持って来ました。」
 崋山は、鬚(ひげ)の痕(あと)の青い顋(あご)を撫(な)でながら、満足そうにこう言った。
「もちろん気に入ったと言っても、今まで描いたもののうちではというくらいなところですが――とても思う通りには、いつになっても、描けはしません。」
「それはありがたい。いつも頂戴ばかりしていて恐縮ですが。」
 馬琴は、絵を眺めながら、つぶやくように礼を言った。未完成のままになっている彼の仕事のことが、この時彼の心の底に、なぜかふとひらめいたからである。が、崋山は崋山で、やはり彼の絵のことを考えつづけているらしい。
「古人の絵を見るたびに、私はいつもどうしてこう描(か)けるだろうと思いますな。木でも石でも人物でも、皆その木なり石なり人物なりになり切って、しかもその中に描(えが)いた古人の心もちが、悠々(ゆうゆう)として生きている。あれだけは実に大したものです。まだ私などは、そこへ行くと、子供ほどにも出来ていません。」
「古人は後生(こうせい)恐るべしと言いましたがな。」
 馬琴は崋山が自分の絵のことばかり考えているのを、妬(ねた)ましいような心もちで眺めながら、いつになくこんな諧謔(かいぎゃく)を弄(ろう)した。
「それは後生も恐ろしい。だから私どもはただ、古人と後生との間にはさまって、身動きもならずに、押され押され進むのです。もっともこれは私どもばかりではありますまい。古人もそうだったし、後生もそうでしょう。」
「いかにも進まなければ、すぐに押し倒される。するとまず一足でも進む工夫が、肝腎(かんじん)らしいようですな。」
「さよう、それが何よりも肝腎です。」
 主人と客とは、彼ら自身の語(ことば)に動かされて、しばらくの間口をとざした。そうして二人とも、秋の日の静かな物音に耳をすませた。
「八犬伝は相変らず、捗(はか)がお行きですか。」
 やがて、崋山が話題を別な方面に開いた。
「いや、一向はかどらんでしかたがありません。これも古人には及ばないようです。」
「御老人がそんなことを言っては、困りますな。」
「困るのなら、私の方が誰よりも困っています。しかしどうしても、これで行けるところまで行くよりほかはない。そう思って、私はこのごろ八犬伝と討死(うちじに)の覚悟をしました。」
 こう言って、馬琴は自ら恥ずるもののように、苦笑した。
「たかが戯作(げさく)だと思っても、そうはいかないことが多いのでね。」
「それは私の絵でも同じことです。どうせやり出したからには、私も行けるところまでは行き切りたいと思っています。」
「お互いに討死ですかな。」
 二人は声を立てて、笑った。が、その笑い声の中には、二人だけにしかわからないある寂しさが流れている。と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。
「しかし絵の方は羨(うらや)ましいようですな。公儀のお咎(とが)めを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」
 今度は馬琴が、話頭を一転した。

・・・・・・・・・


     十四
茶の間の方では、癇高(かんだか)い妻のお百(ひゃく)の声や内気らしい嫁のお路(みち)の声が賑(にぎ)やかに聞えている。時々太い男の声がまじるのは、折から伜(せがれ)の宗伯(そうはく)も帰り合せたらしい。太郎は祖父の膝にまたがりながら、それを聞きすましでもするように、わざとまじめな顔をして天井を眺めた。外気にさらされた頬が赤くなって、小さな鼻の穴のまわりが、息をするたびに動いている。

「あのね、お祖父(じい)様にね。」

 栗梅(くりうめ)の小さな紋附を着た太郎は、突然こう言い出した。考えようとする努力と、笑いたいのをこらえようとする努力とで、靨(えくぼ)が何度も消えたり出来たりする。――それが馬琴には、おのずから微笑を誘うような気がした。

「よく毎日(まいんち)。」
「うん、よく毎日(まいんち)?」
「御勉強なさい。」
 馬琴はとうとうふき出した。が、笑いの中ですぐまた語(ことば)をつぎながら、
「それから?」
「それから――ええと――癇癪(かんしゃく)を起しちゃいけませんって。」
「おやおや、それっきりかい。」
「まだあるの。」

 太郎はこう言って、糸鬢奴(いとびんやっこ)の頭を仰向けながら自分もまた笑い出した。眼を細くして、白い歯を出して、小さな靨(えくぼ)をよせて、笑っているのを見ると、これが大きくなって、世間の人間のような憐(あわ)れむべき顔になろうとは、どうしても思われない。馬琴は幸福の意識に溺(おぼ)れながら、こんなことを考えた。そうしてそれが、さらにまた彼の心をくすぐった。

「まだ何かあるかい?」
「まだね。いろんなことがあるの。」
「どんなことが。」
「ええと――お祖父様はね。今にもっとえらくなりますからね。」
「えらくなりますから?」
「ですからね。よくね。辛抱おしなさいって。」
「辛抱しているよ。」馬琴は思わず、真面目な声を出した。
「もっと、もっとようく辛抱なさいって。」
「誰がそんなことを言ったのだい。」
「それはね。」
 太郎は悪戯(いたずら)そうに、ちょいと彼の顔を見た。そうして笑った。
「だあれだ?」
「そうさな。今日は御仏参に行ったのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだろう。」
「違う。」
 断然として首を振った太郎は、馬琴の膝から、半分腰をもたげながら、顋(あご)を少し前へ出すようにして、
「あのね。」
「うん。」
「浅草の観音(かんのん)様がそう言ったの。」

 こう言うとともに、この子供は、家内中に聞えそうな声で、嬉(うれ)しそうに笑いながら、馬琴につかまるのを恐れるように、急いで彼の側(かたわら)から飛びのいた。そうしてうまく祖父をかついだおもしろさに小さな手をたたきながら、ころげるようにして茶の間の方へ逃げて行った。

 馬琴の心に、厳粛な何物かが刹那(せつな)にひらめいたのは、この時である。彼の唇には幸福な微笑が浮んだ。それとともに彼の眼には、いつか涙がいっぱいになった。この冗談は太郎が考え出したのか、あるいはまた母が教えてやったのか、それは彼の問うところではない。この時、この孫の口から、こういう語(ことば)を聞いたのが、不思議なのである。

「観音様がそう言ったか。勉強しろ。癇癪を起すな。そうしてもっとよく辛抱しろ。」

 六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑いながら、子供のようにうなずいた。

     十五

 その夜のことである。
 馬琴は薄暗い円行燈(まるあんどう)の光のもとで、八犬伝の稿をつぎ始めた。執筆中は家内のものも、この書斎へははいって来ない。ひっそりした部屋の中では、燈心の油を吸う音が、蟋蟀(こおろぎ)の声とともに、むなしく夜長の寂しさを語っている。
 始め筆を下(おろ)した時、彼の頭の中には、かすかな光のようなものが動いていた。が、十行二十行と、筆が進むのに従って、その光のようなものは、次第に大きさを増して来る。経験上、その何であるかを知っていた馬琴は、注意に注意をして、筆を運んで行った。神来の興は火と少しも変りがない。起すことを知らなければ、一度燃えても、すぐにまた消えてしまう。……
「あせるな。そうして出来るだけ、深く考えろ。」
 馬琴はややもすれば走りそうな筆をいましめながら、何度もこう自分にささやいた。が、頭の中にはもうさっきの星を砕いたようなものが、川よりも早く流れている。そうしてそれが刻々に力を加えて来て、否応なしに彼を押しやってしまう。
 彼の耳にはいつか、蟋蟀(こおろぎ)の声が聞えなくなった。彼の眼にも、円行燈のかすかな光が、今は少しも苦にならない。筆はおのずから勢いを生じて、一気に紙の上をすべりはじめる。彼は神人と相搏(あいう)つような態度で、ほとんど必死に書きつづけた。
 頭の中の流れは、ちょうど空を走る銀河のように、滾々(こんこん)としてどこからか溢(あふ)れて来る。彼はそのすさまじい勢いを恐れながら、自分の肉体の力が万一それに耐(た)えられなくなる場合を気づかった。そうして、かたく筆を握りながら、何度もこう自分に呼びかけた。
「根かぎり書きつづけろ。今己(おれ)が書いていることは、今でなければ書けないことかも知れないぞ。」
 しかし光の靄(もや)に似た流れは、少しもその速力をゆるめない。かえって目まぐるしい飛躍のうちに、あらゆるものを溺(おぼ)らせながら、澎湃(ほうはい)として彼を襲って来る。彼は遂に全くその虜(とりこ)になった。そうして一切を忘れながら、その流れの方向に、嵐(あらし)のような勢いで筆を駆った。
 この時彼の王者のような眼に映っていたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉(きよ)に煩わされる心などは、とうに眼底を払って消えてしまった。あるのは、ただ不可思議な悦(よろこ)びである。あるいは恍惚(こうこつ)たる悲壮の感激である。この感激を知らないものに、どうして戯作三昧(げさくざんまい)の心境が味到されよう。どうして戯作者の厳(おごそ)かな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその残滓(ざんし)を洗って、まるで新しい鉱石のように、美しく作者の前に、輝いているではないか。……

      ×   ×   ×

 その間も茶の間の行燈(あんどう)のまわりでは、姑(しゅうと)のお百と、嫁のお路とが、向い合って縫い物を続けている。太郎はもう寝かせたのであろう。少し離れたところにはおう弱(おうじゃく)らしい宗伯が、さっきから丸薬をまろめるのに忙しい。
「お父様(とっさん)はまだ寝ないかねえ。」
 やがてお百は、針へ髪の油をつけながら、不服らしくつぶやいた。
「きっとまたお書きもので、夢中になっていらっしゃるのでしょう。」
 お路は眼を針から離さずに、返事をした。
「困り者だよ。ろくなお金にもならないのにさ。」
 お百はこう言って、伜と嫁とを見た。宗伯は聞えないふりをして、答えない。お路も黙って針を運びつづけた。蟋蟀(こおろぎ)はここでも、書斎でも、変りなく秋を鳴きつくしている。


(大正六年十一月)




底本:「日本の文学 29 芥川龍之介」中央公論社
   1964(昭和39)年10月5日初版発行
初出:「大阪毎日新聞」
   1917(大正6)年11月
入力:佐野良二
校正:伊藤時也
2000年4月15日公開
2004年1月11日修正

抜粋
青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/38_14487.html




有楽町の駅構内の写真です。2024.07.20撮影
有楽町
2024.07.20



「般若心経」

 般若心経は、日本で最も多く唱えられているお経ではないでしょうか。写経をするにしても、大抵は般若心経。しかし、こちらは悟りの境地とはどういうものなのかということを説明しているものです。誰もが唱えるにしては、ハードルの高いものが選ばれました。
 262文字という短さがいいのかもしれません。

 般若心経には、偽経説があったり、そもそもお経ではなく呪文だという説もあります。
 釈迦の時代にはいない大乗仏教の菩薩が教えを説き、それを釈迦が誉めるというスタイルなので、「釈迦が言われたことには・・・」というお経とは、確かに異なります。

 世界最古のサンスクリット語で書かれたといわれる般若心経は、日本にあります。
 法隆寺に伝来されたもので、寺伝によると推古朝の遣隋使、小野妹子が609年に持ち帰ったものだそうです。(附(つけたり)の「訳経記」は、江戸時代の悉曇学者・浄厳が、1694(元禄7)年にこの写本を作り、朱点や句義を注記したもの。)

 「梵本心経および尊勝陀羅尼(貝葉)」と呼ばれ、現在は、東京国立博物館にて、法隆寺献納宝物として保存されています。
 貝多羅(ターラー)と呼ばれる樹葉2枚に書かれた 梵字の般若心経と、仏頂尊勝陀羅尼。


 観念を通して人間が認識できるものが色。我々は、物事を言葉に置き換えて、論理的に捉えようとしますが、実は、観念を取り払うことで物事の実相が見えてきます。それが空という教えです。

 我々は、自分がみているもの、認識していることを、現実と捉えていますが、それは捉える側が変われば、変化するものです。言葉の意味も然りです。
 宇宙は、デジタルの世界のように、0か1でクッキリと捉えることはできません。実際に起こっているその滑らかな変化を、そのまま受け取ることが空です。
 自然界は、流動して、止むことはありません。

 

「般若波羅蜜多心経」玄奘三蔵訳8世紀に遣唐使によってもたらされたとされていますWikipedia
「般若波羅蜜多心経」
玄奘三蔵訳
8世紀に遣唐使によってもたらされたとされています
Wikipedia




富士山の写真です。2024.07.07
富士山
2024.07.07

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雲の峰 間の光線を 子ら覚ゆ 広在

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*2022年、復元された方丈庵は、河合神社境内より、下鴨神社糺の森に移設されたそうです。
詳細は、下鴨神社の摂社 河合神社へお問合せください。
https://www.shimogamo-jinja.or.jp/bireikigan/

 


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