広川町のむかし(奈良時代)
本編に入る前に…。
「有田地方と広川町のむかし」(昭和57年発行)は外江素雄先生が広川町の郷土史を小学生向けに綴った書籍です。当時2000部ほどしか発行されず、地域の図書館にも貸し出し本はありません。しかし、この本の内容は地元住民でも知らない地域の伝統文化や地名の歴史が記載されており、非常に貴重な資料となっております。我々郷土史プロジェクトのメンバーがこつこつとデジタル化を行いました。承諾いただいた外江先生、協力してくださった皆様に感謝申し上げます。
奈良時代(約千三百年〜千二百年前)
百数十種類もの貢納物(こうのうぶつ)
奈良時代の百姓はもっともみじめであったといわれていますが、なるほど、当時の「延喜式(えんぎしき)」という記録には、米ばかりではなく実に多くの産物が紀伊国(きいのくに)からも朝廷へ送られていたことが書き記されています。
上等、紀伊国(きいのくに)の塩、テングサ
下関市立大学の平野博之(ひらのひろゆき)教授の研究によれば、紀伊国の負担は、絹、鹿皮、樽(こむか)(たる)のほか海草類や雑穀が多く、特に海草は全国最高の量を納めていて、その中でもテングサが多いということです。
紀伊国の産物で特別、質がよいとされたのは塩でした。
朝廷の神前に供えるモチにつかわれる塩は紀伊の塩と決められていました。
そのほか、儀式に用いる海草は「賀多(かた)の潜女(かつきめ)が採ったもの」(現在の和歌山市加太の海女(あま)が採ったもの)でなければならないとされていました。加太は当時、海人族(あまぞく)の中心地でした。
おそろしい水銀(みつかね)の毒
大宝(たいほう)三年(七〇三)、朝廷は、奈我(なが)、名草(なぐさ)の二郡は布のかわりに糸、阿提(あて)、飯高(ひだか)、牟漏(むろ)は水銀(みつかね)を差し出すようにという命令を出しました。
現在、吉備町には「丹生(にゆう)」という地名がありますが、前述のとおり、天然の水銀を堀り出すことを専門にしていた朝鮮系の丹生(にゆう)一族のいたところだと思われます。
水銀は金をとかす時に大量に使われ、仏像などに金ぱくをはりつけるのにはなくてはならないものでした。しかし、水銀は空気中では少しずつたえず蒸発し、それは人体を知らず知らずのうちにむしばむ有毒なものでした。
都では聖武(しょうむ)天皇が大仏造りを命令したためにいっそう銀は必要となりました。
七五二年、東大寺、大仏のはなやかな開眼供養(かいげんくよう)式典のかげには、水銀の毒によって廃人となったり、命を失った名もない多くの地方の人々がいたことを忘れてはなりません。
平城京(へいじょうきょう)の木簡(もっかん)は語る
最近、平城京の発掘現場で、地方から送られてくる調(ちょう)(特産物)につけられた木の札=木簡が発見されました。
その中に次のようなものがありました。
上の木簡(もっかん)でわかるように奈良時代前期には「阿提評(あてのこおり)」も、「安諦郡(あてのこおり)」と書くようになっていたようですね。
調というのは、地方の特産物をさし出す税のことです。そのほか人々は租(そ)・庸(よう)という税やいろいろな労働を強制させられました。
「幡郷(はたのさと)」が宮原地区西部であろうということは先にみたとおりです。
この時には、まだ海岸線は宮原の近くまで入りこんでいたらしいこともわかりますし、渡来してきた人々が塩つくりなどの高い技術をもっていて、当時の地方社会においてもリーダーであったことなど、この木簡は物語っています。
青少年は命令された所へ
さまざまな税は正丁(せいちょう)(二一才〜六〇才の男子)を基準にし、中男(ちゅうなん)と呼ばれた十七才〜二〇才までの男子には正丁の四分の一の税と定められていました。しかし、やがて、青少年たちは国司の命令によって、決められた場所に働きに出なくてはならないようになりました。
紀伊国ではこれらの中男作物(ちゅうなんさくもつ)は、やはり海草類が多く、魚や貝類、きはだ(薬や染料として用いる)、綿などもみられます。
尚、「続風土記(しょくふどき)」によるとこの時代の紀伊国の総人口を、約十四、五万人と推定しています。