広川町のむかし(はじめに)
本編に入る前に…。
「有田地方と広川町のむかし」は外江素雄先生が広川町の郷土史を小学生向けに綴った書籍です。当時2000部ほどしか発行されず、地域の図書館にも貸し出し本はありません。しかし、この本の内容は地元住民でも知らない地域の伝統文化や地名の歴史が記載されており、非常に貴重な資料となっております。我々郷土史プロジェクトのメンバーがこつこつとデジタル化を行いました。承諾いただいた外江先生、協力してくださった皆様に感謝申し上げます。
有田地方と広川町のむかし
外江素雄
この本を作るにあたって
一、時代の流れをおこしている本質的な情勢の上に紀伊、有田、広川地方の史実をあぶり出していく。
二、できるだけ実証的な姿勢で記述するが、伝説や筆者(私)の主観、推定も組み入れてロマンで味付けもしてみたい。
三、読み手にストレスをおこさせないようレイアウトに十分な配慮をしていく。
序文
和歌山県文化財研究会理事 田中重雄
広川町南広小学校で教鞭をとられている外江素雄(とのえ もとお)先生は、大変教育に熱心な気鋭の人であり、かつまた、郷土史研究にも若い情熱を燃やしている篤学の士であります。
その外江先生が、このたび『広川町のむかし』と題して、この地方の原始・古代から近代までの歴史を分りやすく書いた本を出されることになったことを心から喜んでいます。よくがんばりましたね! と思わず叫びたくなるくらいです。
外江先生の言葉によりますと、この本は、小学校高学年の児童から中学校の生徒向きに書いたということですが、高校生やそれ以上の人達にもお勧めしたい労作であります。
人間は誰でも多かれ少なかれ自分の郷土の歩みについて知りたいという気持ちを抱いています。
しかし、この願望に十分応えてくれる適当な書物は、現在のようなおびただしい出版物の出廻っている時代においてさえ、そうたやすく見付け出すことが出来ません。このような状況の中で、このたびの外江先生の著書は、あたかも旱魃に慈雨を得たような喜びに等しいといえるのではないでょうか。その理由をもう少し詳しくいわしていただくと、私たちの郷土広川地方の歴史を縄文・弥生時代と呼ばれている大昔から、私どもの祖父母が生活を営んだ近代に至る幾千年の長い期間を、考古資料・文献史料・民族資料および地名の上から詳しく、しかも平易に述べていますので、まことに有難い参考書といって過言ではありません。
ところで、外江先生が、いったいいつごろから本書の執筆を思い立たれたのか、私には確かなことは分りませんが、広川町津木小学校から南広小学校へ転任されて間もなく、私の書斎を訪ねてこられました。その理由は、私が編集委員長となって発刊した『広川町誌』を読んだからだということでありました。おそらくそのころから外江先生は、この本の執筆をひそかに計画されていたものと思います。
その後度々私の許に参りまして、倦むことなく郷土史研究について語り合いました。何時もその熱心さに感心させられましたが、特に「広川町誌」の中で私の執筆した歴史篇や産業史篇などを殆んど暗記するところまで繰り返し読んだと聞いて、いささか驚きました。このような人が、たとえ一人でもいてくれたことを感謝せずにいられませんでした。
そのうち外江先生から、小中学生向きのやさしい広川町史を書いてみたいと打ち明けられました。そのとき私は、即座に賛成したのであります。私の書いた広川町史は、大体大人向きで、少くとも高校生以上でないと少々無理だと思っています。だからそれ以下の年令層に適した広川町史の必要性を痛感していたからでした。
本書の原稿なりゲラ刷で見せてもらって感じたことは、文章の表現こそやさしいが、内容はかなり高度のものであり、特に古代史の部分では、今まで余りいわれなかったような新説または仮説を立てて、当地方の歴史解明に努力をされていることでした。これだけでもまことにユニークな本だといえますが、全編を通読すれば、我々の祖先が、どのような歩みを経て今日の広川町の基礎を築いたかなど、最も知りたい事柄が、比較的簡単に頭に入るように書かれているのが本書の特色といえます。
外江先生が、本書の執筆に着手した昭和五十五年、南広小学校に在籍のまま、和歌山県教員研修所の研修生に選ばれまして、その後二ヶ年の間、湯浅町から和歌山市まで自家用車で通学されました。そして、社会科研修生として歴史の勉強に精励されたのであります。私はそのころ和歌山市毛見の琴の浦リハビリテーションセンター附属病院へ毎週一回通院していたものですから、誘っていただくのをよいことにして、外江先生の車に便乗させてもらいました。その車中が、二人の郷土史座談の場となり、外江先生にも大変喜んでもらいました。
外江先生は、二年間の研修生活を終えて、再び南広小学校の教壇に立たれるようになったとき、奇しくも私の内孫の男の子が、外江先生担任のクラスに編入されました。そのため私は孫を通じて一層はっきりと外江先生の教師像を知ることが出来ました。それは、噂に聞いていた以上に教育に熱心な先生であるという事実でした。しかし、私はここでそのことについて詳しく紹介する任でもありませんから省略させてもらいます。
とにかく、ここに出版された『広川町のむかし』は、当町の児童生徒ばかりでなく一般の人々にも是非読んでいただきたい良書であります。さらに申し上げたいのは、広川町内の人達ばかりでなく、広く郷土文化の歴史に関心を寄せられているほどの人々にも是非お勧めしたいということであります。
もくじ
はじめに
縄文時代
弥生時代
古墳時代
飛鳥時代
奈良時代
平安時代
鎌倉時代
南北朝時代
室町時代
安土桃山時代
江戸時代
広川町内全小字名調査
回想
はじめに
広川の川口でシロウオとりをしているおじさんが 「昔は一時間もすれば、マスに一〇パイはとれたのに、今はその三分の一とれたらよい方やな。」 と、言っていました。
原因は水のにごりと潮の影響だということです。
広橋の下は満潮の時に潮水がさかのぼってくるのと、上流から流れてくる川の水がまざり合ってシロウオが住むのに絶好であったのです。
しかし、今では、潮ははるか五百メートルも上流の新広橋の下にまでさかのぼるようになりました。
また、天洲の浜は、二〇年ばかり前までは砂浜が今よりずっと広くて、夏ともなれば海水浴場として、ボート屋やかき氷などを売る店が出るほどよくにぎわいました。でも、今、防潮堤ができ、すぐその下にまで波がきて、干潮の時でも砂浜はほんのわずかしか見られなくなりました。
これらのことから、湯浅、広川地区では、わずかずつ陸地が沈みつつあることがうかがわれるのです。
しかし、この陸地が沈むことは昭和二十一年に起った南海大地震以後のことで、実はその前は反対に陸地が盛り上がり続けていたのです。
ところが、この動きも、九〇年さかのぼった江戸時代の安政元年に起った大地震から始まったものだといいますから、私たちの郷土はいく度となく地形やその面積を変え、森林の姿やそこに住む動物さえも変えてきました。
私たちの町名になっている広川も、私たちの知り得るかぎりには、三回も流れを変えて現在に至っています。
いったい何千年もの昔から、私たちの郷土、広川はどのようにその姿を変えてきたのでしょうか。
私たちが日頃生活し、遊んだり、行ききしているその同じ場所で、昔の人々はどんなに生きてきたのでしょうか。
都でおこった事件や日本の政治を動かした人については、くわしく研究され、わかっていることも多いのですが、郷土のことはそれにくらべてまだまだ明らかになっていません。
有田地方のなかで、私たちの広川町はどのような道を歩んできたのか、現在知りえるかぎりの郷土の資料、文化財、地形、地名などをもとにできるだけみなさんにわかりやすく、これからそのあとをたどっていこうと思っています。
調査、研究にご協力下さった町民の方々、各地の多くの方々ありがとうございました。
著者
広川がつくった……広の平野
広の平野は津木の土
約一万年以上も前、津木の谷はさらに深くするどく、井関や名島のあたりも今よりずっと下の方にあり、そこは谷川の流れる溪谷になっていました。
津木の谷水を集めて流れる広川は、この一万年もの間雨によってけずられた土を休みなく下流に運ぶ作業を続けてきました。
現在の広の平野の大部分はこうして運ばれた土砂が長い間に湾内の海水面下に積り、その後、海水が沖へ後退したために出来上ったものなのです。
このような平野のことを「沖積(ちゅうせき)平野」といいます。
南広は洪積台地
広平野が一万年来の広川による沖積平野であるのに対し、南広の台地はそれよりはるかに古く、約二〇万年もの大昔に海水の働きによって平らにされたものなのです。