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広川町のむかし(濱口梧陵)

本編に入る前に…。
「有田地方と広川町のむかし」(昭和57年発行)は外江素雄先生が広川町の郷土史を小学生向けに綴った書籍です。当時2000部ほどしか発行されず、地域の図書館にも貸し出し本はありません。しかし、この本の内容は地元住民でも知らない地域の伝統文化や地名の歴史が記載されており、非常に貴重な資料となっております。我々郷土史プロジェクトのメンバーがこつこつとデジタル化を行いました。承諾いただいた外江先生、協力してくださった皆様に感謝申し上げます。

我が郷土史に永遠に輝く巨星 人類愛に生きた行動の人 濱口梧陵



 縄文時代から郷土の歩みをたどってきた「広川町のむかし」も江戸末期をむかえてひとまず終了することになりました。

 この長い歩みの中でラストに登場するのが広川町民の誇り浜口梧陵です。彼の名は一般の人々の間には安政元年の津波の物語「稲むらの火」の主人公としてよく知られています。しかし、これは少し正確でない部分もありますし、何よりも梧陵が救済家という一面でしか理解されないおそれがあります。限られた紙面ですが、梧陵という人がどんな人物でどんな生き方をしたのか、筆者なりの見方も加えてできるだけよくわかるように著(あら)わしてみたいと思います。


丁稚(でっち)と同じあつかい

 彼は文政三年、当時広では随一の財産家浜口家に生まれました。彼が生まれたのは分家の方でしたが、本家の六代儀兵衛には男子が誕生せず、十二才の時、西浜口家のあとつぎとして本家に入りました。

 浜口家はその頃には銚子の荒野村でしょう油の製造をおこない、江戸深川に大きな店を出し多数の奉公人をかかえていました。そのほか江戸、扇橋にもお金の貸付所を出し、商売繁昌でますます資産をふくらませていました。広にも相当な山林と田畑を持っていたといいます。

 彼は十二才にしてヤマサしょう油の若様となりましたが、浜口家の代々のしきたりとして、まったく他の丁稚たちと同じあつかいを受けて育ちました。ヤマサの雇(やとわ)れ人は決して食事の時に座布団をしくことを許されませんでした。彼は年老いても奉公人たちと苦楽をともにするため食事をする時には座布団はひかなかったと言うことです。

 彼はまた、学問にたいへん興味を持ち、番頭のお供をさせられる時はよく本をかかえ、商用が終わるまでそれを読んで待っているというようすでした。十五才の頃には太閣記を暗誦していたり、番頭さえ読めないむずかしい本を次々と読みこなしていたといいます。


蘭学(らんがく)、兵学を学ぶ

 幕末、外国船がたびたび日本の近くに現れ、国内には外国から攻めてくる敵をうちやぶれという攘夷(じょうい)論がさかんに主張され始めました。そして、オランダの学問を学んだ学者たちは幕府からきびしいとりしまりを受けました。

 梧陵が終生の師としてあおいだ三宅艮斎(こんさい)は、長崎でオランダ医学を修め江戸へ上京したものの幕府のおひざ元では開業できず銚子へやってきました。梧陵は身近にやってきた蘭学者を無二の珍客として喜び、様々な教えを乞いました。

 艮斎(こんさい)によってヨーロッパ諸国の文明を学んだ梧陵はどんなに若き血潮をおどらせたことでしょう。

 外国船によって長い眠りをゆりさまされた日本はさらに、勤王(きんのう)(天皇方)と佐幕(幕府方)につく意見など「国をどう守るか」ということで国中大きな緊張に包まれていました。

 梧陵は、こんな時声を高くして議論ばかりしていてはダメだ冷静に時代の流れをみつめ、自らの修養をつんでおかなくてはいけないと考えていました。そこで、当時勤王の志士として知られていた栖原村出身の菊地海荘(きくちかいそう)の紹介で兵学者、佐久間象山(しょうざん)の門をたたきました。象山は幕末において兵学と砲術の第一人者と名高い学者でした。後年、梧陵が広に持ち帰ったゲベル銃はこの象山から買ったものと思われます。

 彼が蘭学と兵学の塾を開いていた勝海舟(かつかいしゅう)と交わりを持ったのも同じ頃でした。海舟は梧陵よりも三才年下ではありましたが、その時代を見とおすすぐれた学識や人格に梧陵は強く心をひきつけられました。海舟もまた梧陵のことを「かなりの人物である。」と尊敬し、長く二人の交際は続きました。


広村崇義団(すうぎだん)の結成と稽古場

 嘉永四年、三十二才。久しぶりに広村に帰りました。

 彼は早速、村の男たちを集めて、日本を外国人の手から守る必要にせまられていることを説きました。

 こうして、同年八月に、広村崇義団が結成されましたが、その時の趣意書には彼の尊王攘夷論者としての考え方がよく表されています。

次の文はこの趣意書の一部をやさしく書きなおしたものです。

趣意書

今日ここに氏神と崇め奉る八幡神社の御前で正義勇ましい男子を集め約束をかため人数をそろえるのは決して物好きに軍のまねをするのではない。近年、異国船があらわれし、その本心はわが日本国をねらいとってわが物にしようとしてのたくらみなり。もし、わが日本の土地を少しでも売人(外国人)などにとられては日本の大恥ゆえに、天子様(天皇)は、たいへん心を痛めておられる。神の国に生まれた者は我々のような者にいたるまできっと心を一つにしてこの国を守らねばならない。我々身分の低い者は、天子様に親しく忠孝をつくすことはできぬ、この国を守ることが天子様につくすことであると考えている。万一のことがあれば我々でこの村を守る覚悟である。しかし、心ばかりかたまっても役には立たない。みな鉄砲や槍の訓練に日々はげみ、必ずや夷人(いじん)の手から村を守ることを誓う。

 広村崇義団


 この文中に「みな鉄砲や槍の訓練にはげみ」というところがあります。彼は文明の進んだ外国に対抗できる国力をつけるには青年の教育こそが大切であると考えていました。

 そこで、まずは地元の青年を集めて稽古場を開くことにしました。この計画には東浜口家の浜口東江 (とうこう)(五十三才)や岩崎明岳(めいがく)(二十三才)らも加わり、嘉永五年(一八五二年)田町の納屋(なや)をかりてスタートしました。この稽古場こそのちの耐久中学校の起源となるものでした。

 みかけはそう立派ではない稽古場でしたが、田辺より剣道の指南に沢直記(さわなおき)を呼び、夜には、広八幡神社の宮司佐々木馬之助から漢学を学ぶなどその内容はたいへん充実したものでした。梧陵自身も槍術(そうじゅつ)を教えたということです。

 一年後には全国武者修行中の剣客、海上六部を広にとどめて師範とし、夜学の方は時の蘭学の大家、緒方洪庵(おがたこうあん)の紹介で小野石斎(せきさい)をむかえて続けられました。


考えを一転………開国論へ

 嘉永六年、江戸に帰った梧陵の考えを一転させる出来事がありました。アメリカのペリーが黒船四せきをひきいて開国をせまってきたのです。アメリカの主張の正当さに梧陵は深く心をうたれ

「今や世界はたがいに心を開いて交際する時代である。」

と開国を熱心に人々に訴えるようになりました。その上、なんとかヨーロッパ諸国を視察したいという夢を抱くようになりました。彼は海外へ渡ることを幕府が許可してくれるようさかんに運動しましたがこの願いは実現しませんでした。


安政の大津波

梧陵手記全文       (  )内は筆者

 嘉永七年(安政元年)十一月四日四ツ時(午前十時)強い地震がある。そのゆれが止んですぐに海岸にかけつけ海面をながめると、波の動くようすはふつうでない。海水が盛り上がりまた下がりすること六・七尺(十八メートル~二〇メートル)。大波の衝突するしぶきは大波戸にあたり、黒き高波が現われそのさまは実におそろしい。

 伝え聞いたところによると大地震のあとには大津波が襲うという。すぐにとって返し、村人たちに知らせ、家財道具のほとんどを高い所へ運ばせた。女や年より子どもは八幡神社の境内に立ち退かせ、強そうな男たちをひきつれて再び海辺にやってくると、大波は波戸をおおうほどにあれくるい、つないでいた小船は岩に当りくだかれてしまっている。

 こうして夕方になると、潮の勢いはようやくおさまり、夜に入るといつもとかわらなくなった。しかし、家のほとんどは空家となっているので、盗難と火の用心のため、男たち三十人あまりを三つに分け夜どおし村内や海辺の見まわりをさせた。その間、八幡神社の境内に避難していた人々にかゆを作って一夜の食事とした。

 五日

 曇り空、やや暖くうす日がさしていわゆる花曇り。海面は別に異席もないのをみて、立ち退いていた村人たちは安心し、それぞれの家に帰り何事もなかったことも喜んだ。私の家にもきのうの礼を言いにくる村人があとをたたず、その応待で時間すごす。
 午後、村人がかけつけて、井戸水が急に減ってしまったと言う。
これはまさに天災のおこる前ぶれではないかと不安がつのる。はたして七ツ時頃(午後四時)になり大地震が起りその激しさはきのうとはまったくくらべものにならないものだった。瓦がとび、壁はくずれ、塀たおれ、土ぼこりが空をおおう。はるかに西南の天をみれば不気味な黒雲の間からは金の光が差し込み、何かあやしげなものが飛んでいるかと疑われるようでもあった。しばらくして震動が静まったので、早速村人の避難にとりかかる。村内を見まわっている間にも西南の海上からは大砲の音かと思われるほどの響きが数回した。
 すぐに海辺へかけつけて沖をみるが、何のかわったようすも見られない。ただ西北の空の雲が特に黒く、あたかも長い堤を築いたようであった。


瞬時にして波にのまれ、沈み浮び

 わずかにホッとするのもつかの間、みるみる空一面黒雲がひろがりあたりはうす暗くなった。力強き者をはげまし、逃げおくれる者を助けつつしている時、「大津波がはやくも家を襲ってきた」と叫ぶ声が聞える。

 必死で逃げる途中、左手の広川のあたりを見ればあれくるう大波はすでに数町の川上にまでさかのぼり、右の方見れば人家のくずれ流れる音ものすごく肝を冷やす光景であった。とたん、あっというまに自分の体も波にのまれ、沈んだり浮かんだりようやく小高い所にのがれる。ふり返って見れば大波におし流される者あり、流れる材木にすがりついて波にのまれる者あり、その悲惨なありさまは見るにたえないものであった。

 いったん八幡の境内に避難すれば、そこには難をのがれてきた村人たちが今や悲鳴、泣き声をあげて、親をたずね、子をさがし、兄弟の名をよびまるで鉄釜の中がふっとうしたようなさわぎである。それらの人々のところに行ってはなぐさめ「私も助かってここにいる。さあ心を落ちつけよう。」と大声で何度も何度も叫んでまわった。

 被害のあとを調べに行こうとして八幡の鳥居の下にくる頃は日もとっぷりも暮れていた。男たち十人あまりに松明(たいまつ)をもたして向う。流された家の柱などがおり重なっているのを越えて進みまだ命のある者数名を救う。


稲むらの火 九人の命を救う

 さらに進もうとするが流木が道をふさいで暗やみの中、歩くこともできない。しかたなく、ついてきた者たちとひき返すことにするが、その際、道ばたにある十ばかりの稲むら(すすき)に松明(たいまつ)で火をつけた。逃げおくれ今も海水の中にいるかも知れない生存者に、安全な場所を知らしてやるためだった。これはむだではなかった。この稲むらの火のために九死に一生を得た男女が九人もいたのだ。

 一本松の所までひき返してきた時だった。ものすごい轟音(ごうおん)とともにふたたび大津波がおしよせ、あかあかと燃えていた稲むらが次々と大波にただよい流されていくさまは天災の恐るべき力を目のあたりに見せられる思いがした。今回の前後四回の大津波のうちではこの時が最大であった。

 それからは隣村の法蔵寺に行き、住職にかけ合って、たくわえの米を(十数石)借り入れ、すぐにこれを炊いてにぎりめしをこしらえ、八幡神社の境内やその他の避難所に配ってまわった。しかし、これでも数日間をしのぐに難しいと思ったので夜中に中野村の庄屋の戸をたたき、しぶるのをむりやりに年貢米五〇石(八十俵)を借り受け明日の準備とする。


人生の悲惨 ここにきわまれり

 六日。風静かにして日暖かなり。東の方白むのを待って八幡の鳥居の下より全村をながめる。被害の程度は昨夜の想像よりやや軽いような感じがする。しかし、漁船のひっくりかえったのがあり大木の根からひき抜かれたのあり、また田畑には家具が一面に散らばっていた。行く道々こわされた、人家に近づけば流木のつもることますますおびただしくとび口を杖にしてその上をふみこえ海辺に出てみればさざ波もなく油を流したようなのどかさであった。しかし、その間には流木やさまざまな漂流物が汚物といっしょにいっぱい浮いていた。海岸にそって西へ行けば、ほとんどの人家は流れ去り、または全壊し、ただ一・二軒の残っているだけであった。あ~いく百の人たった一日の夕ぐれの津波に打ち倒される。人生の悲惨ここに至りてきわまれり。
 ためいきも半ば、またしても強い地震。おどろいて天王山の高地にかけ上がる。ついに被害のようすを見回るのもできず、避難所に帰り炊き出しのようすをみる。八幡神社と法蔵寺の境内には村人があふれると言えども(約千四百人)ただ地上にたたみをならべ、戸やしょうじで囲ってあるばかりの野宿にすぎないため老人や子どもの中には寒さや苦しみをうったえる者も出はじめた。避難所のこのような状態では到底雨露をしのぐこともできず、ふたたび中野村の庄屋にかけ合い、仮小屋を造ることを願いその承諾を得る。(親類のある者は、そこにできるだけ引き取らせた。)
 朝以来地震のゆれは再三におよび、また西南の方で地ひびきすること数回あり。そのため、村人たちの心は休むいとまもなく、何も手がつけられないありさまであった。それでこの際はもっぱら人々をなぐさめはげますことに専念し、一方炊事がおこなわれるよう指導した。夕方、藩より役人が来て救済の方法を話し合う。その時お救(すくい)米が下されるよう願書をしたためる。この夜、始めて高地に非常番をおく。 明日の役割を決める頃には暁(あかつき)をむかえていた。


流失品を盗む者がいる

 七日。町中をみてまわる。被害の最もはなはだしいのは昨日、見回った西の町と浜町であるが、中町や田町の家も多くは流され、全壊していた。所々に大木や漁船が道路をふさぎ一昨日の津波がどれだけ激烈であったかを物語っていた。
 この日も人々の不安は静まらず。大津波が再び襲ってくるというウワサがその不安をいっそうかきたてる。いつもは屈強をほこる者もすっかりおびえ、朗らかな者もすっかりだまりこんでただ今回の天災をなげくばかりで、あとの処理に手をつける者もいない。私はこの間にあってある人にはさとし、ある人には励ましすること昨日にひき続く。ところが、利にさとい者の中には、ようやく我にかえり、町の中にちらばっている流失品をひろいに行く者が出はじめ、また、山の村の方からもこの流失品を盗みにきている者がいるということも耳に入ってきた。そこで、村の要所に見張り番を立たせるようにしたのだが、ほんの微震があっただけでこの番人が逃げかえってくるのにはほとほと困ってしまった。


離村を考える人たちも

 八日。村人たちようやく津波の来襲のおそれをなくし、避難所より自宅にもどりあとかたずけに取りかかろうとするが、被害のない家などほとんどない状態で、柱かたむき壁は落ち、家財道具の大半は流れ去り、だれも自分の家であることを認めることさえ苦しむほどである。とりわけ、まずしい漁師・百姓たちは住む家の流失、破損とともに、もとより多くもない家財や農具を失い、いっきに生活の道をうばわれ ぼう然としてたたずむばかりであった。彼らの中でこの広の地から離れようといい出す者も多く出始めた。
 本日、初めて村の役員を集め、仮の役所をもうけ日夜、人夫の配置その他の指揮、被害村民の訴えを聞く。
 にぎり飯はまだ避難所において炊き出しをし、自分や村役人といえどもこのにぎり飯でわずかに空腹をみたすのみである。私は被害者の救助として玄米二百俵を寄付することを掲示し、あとに続く先例となるようにした。(梧陵に続き浜口東江も二百俵差し出し、ほか広・湯浅の資産家三十四人から合わせて二百五十六俵、銀八百四十貫の寄付があった。)
 本日になり震動もほとんどなくなり、津波のおそれは全くなくなり、流れてちらばった物品を集める者が増えてきた。しかし、自分のもの他人のもの区別なくとりこむため不正や争いが絶えず、各所に役人を立て、弱き者の不利がないよう警戒させる。
 村民の持っていた米俵はもとより、本年年貢米の民家にあるもの、広村のお蔵米(年貢米を集めたもの)に至るまで津波のため流れ散らばったもの多く、よって、第一にその収集を命じた。蔵米は各所につみ上げ、日夜番人をつけ、各自の年貢米は検査の上封印をしてその所有者の家へ運びこんだ。
 しかし、被害者の多くは家財をなくし、日がたってこれらをひろい集めても十に一つも得るところがなく、ほんの少したくわえのある者も日々にそれらをなくし、朝夕の食べ物もなくとほうにくれるばかりであった。そこで、毎日これらの人々に対し、散乱した海産物などを集めさしたり、道路を開通さしあるいは番人などの仕事を与えてその日の生活ができるようにした。
 また、ひろい集めた木材・瓦などは各所につみ上げて入札によって売り、その金をもって村民が家を建てるときの借付金とした。


被害のようす
一、家屋流失     百二十五軒
一、家屋全壊     十軒
一、家屋半壊      四十六軒
一、潮入大小破損の家屋 百五十八軒
  合計        三百三十九軒
一、死者        三十人(男十二人、女十八人)


梧陵、莫大な救済費用を出す

 梧陵の出費がいかに莫大なものであったか、今、わかっているだけでも、

  • 漁船二十八叟とその漁具、米二百俵 銀九十八貫

  • クワ・カマなど農具 銀二貫五百匁

  • 家屋建築の援助金  銀三貫四百匁

  • 家屋新築五〇軒   銀約四十二貫

  • 広橋の建設     銀約二十四貫

  • その他

  • 合計        銀約二百七十八貫

 現在の金額にあてはめると約一億五千四百万円にもなります。

(田谷博吉博士の算出方法による)

 しかし、梧陵にはまだまだ多くの出費があり、決してそれを口には出さなかったといいます。驚くことに梧陵はこの大災害後もたちまちにして稽古場を自らの費用で修復し夜学を開いたのです。この時、まずしい五・六人の青年たちの費用も彼は出してやり学問を捨てぬようさとしました。

 翌安政二年には、浦組を組織し、安楽寺の横に調練場を造って毎日毎夜、銃のあつかい柔術その他の武道を青年たちにたたきこみました。この調練の装備、衣服などに要する費用もまたすべて梧陵個人の負担でした。調練場には何かの事にそなえて多量の玄米の乾飯や、梅干、たくあんなどいく十樽もおかれてあったといいます。

 これらの莫大な支出に対して、梧陵と同じ年の番頭、泉平兵衛はしきりと強く反対しましたが、彼は最後までおしきってしまいました。


梧陵のエピソード

その1 彼は十二才にして本家に入ったため、分家の実母を「おばさん」と呼ぶ関係になった。その実母が亡くなった時、生前に十分な考行をしなかったと悔み、五〇日間仏間にたてこもり、一晩も横に寝ず、毎日お経を読んでいたという。

その2 防波堤に松を植えるため、二、三十年のものを山から持ってきた。その時、一本一本その木がはえていた時の方向をメモしておいて、自然にはえていた時のままに植えかえた。

その3 彼が田を見まわる時、百姓と出会えば必ず先に「ご苦労さま」とあいさつしたという。あぜ道で横によけて通行をゆずるのも彼の方であった。

その4 人と話をする時は決してひざをくずすことがなかった。話題の中で前の浜口家の主人の話が出ればかるく畳に手をついてこれを聞いた。

その5 あるたいへん寒さが厳しい冬の日。みなにごちそうをするから、と村の青年十五、六名を招いた。通された部屋は全部障子がとりはらわれ火鉢もない。多分、寒い目に合わせておいて暖いものを食べさせるのだろうと思っていると、なんと冷しソーメンが出た。ていねいにもたっぷり氷が入っていたという。
 またある時、梧陵は友だちを三人よんで洋食をごちそうした。鳥のカツレツが出てきたので一同何の気なしに食べてしまうと「だれも今の鳥は知るまい。あれはカラスじゃ。」と言って笑った。


「浜口梧陵ほどの人格の人には出会ったことがない。」という話が数多くの記録に残っています。


防波堤の大工事始まる

梧陵はなぜ急いで始めたのか

 大工事が始められたのは安政二年二月ですから、大津波災害からまだわずかに三ヵ月しかたっていない時でした。大津波はそんなに短期間にはやってくるとは思えないのに、こんな大工事をこんなに急いでやり始めたのはどうしてでしょう。

「永久に広の町を大津波から守る」という目的のほかに次のような事情があったからなのです。


三ヵ月後に始めた事情

一、「広には住めない」という空気

 災害後、村人の間には
「文明や天正、宝永の大津波と、そして、今度の災害。こんなにたびたび津波におそわれる土地にもう住めない。」
「ほかの村にくらべて土地が低い上に両側を川ではさまれてしまっている。こんな危険な村をすててよそへ行こう。」
という声がしきりと出始めました。

 特定の農地に百姓をしばりつけて成り立っている江戸時代の社会で、百姓が土地をすてることは重大なことでした。
また、水主(かこ)(漁民)がいなくなれば広浦漁業はいっぺんにさびれてしまいます。地主である村役人や梧陵にとって広村から人々が他村へ流れることはどうしてもやめさせなくてはなりませんでした。そのため、根本より村人たちが安心して住めるよう防波堤を造ることがいちはやく計画されたのです。


二、失業者に仕事を与える

 耕すに田畑なく、漁をするに網なき多数の人々は真冬にどん底の生活を強いられていました。梧陵はこれらの人々に食料や農具・漁具をあたえて救済してきましたが、このような救済はきりがないばかりでなく、かえって働く意欲をなくし救いを待つ心(依頼心)を人々にうえつけかねないようすが出てきたのです。村人に仕事を与え、働く意欲をおこさせる必要がありました。そこで、堤防造りの大工事が用意されたのです。しかし、村人に仕事を与えるというだけなら、浜口家としてもっと利益になる事業がほかにあったはずですから、この大工事によって梧陵の徳がしのばれる、と語りつがれているのももっともなことではありませんか。
 工事を起すため代官所に差し出した上申書には
「右の工事はおそれながら私いかようにも支出仕(つかまつ)り」
と書かれてあります。もし、この工事が公共事業であるとしてお上(かみ)の支出によっていたら決して実現はしなかったでしょう。


三、年貢米を軽くする = 一番の悩み

 江戸中期までの繁栄以来もともと広の年貢は高くかけられていました。ところが、津波の災害以後は到底その年貢米を払うことは不可能になりました。津波のため田畑は泥土と石ころでうまり、これをもとどおりにするには多くの費用と日数をかけなくてはなりません。余裕のない小地主にいたっては、収穫のない田畑を持っているためにかえって多くの年貢の負担をおわされ生活に困りはてる運命が待っていました。かと言ってにわかに年貢を許してくれる見通しもありません。

「今回の災害における多少の費用は私の力で出すこともできるが、年貢米のようなものは永久の負担なり。しかし、この年貢米を軽くしなければいつまでもこの広村は立ち直れない。」

 当時彼が何よりももっとも心を痛めたのはこの年貢米のことだったと「浜口梧陵伝」に書かれています。

 ぐあいの悪いことに特にひどく田が荒れてしまったのは海岸近くの上々田(じょうじょうでん)や上田でした。

 梧陵が考えついたのはこの年貢米の重い泥土をかぶって石ころだらけの上田(じょうでん)を堤防の下にうめてしまうことでした。これらの田を堤防の敷地にすることの許可をとるため梧陵は浜口東江とともにあらゆる方面に懸命に働きかけたといいます。おかげでその年から広村にかかる年貢米はずいぶん減ることになりました。勝海舟はこの村の年貢をへらした梧陵の功績を特にたたえています。彼が単純な慈善事業家でなかったことはこのことにもよく現われています。

 安政二年春、いよいよ大工事は始まりました。毎日、仕事のない村人たち四五百人もの人たちが堤防造りに汗を流しました。その中には女や子どもたちもまじっていました。梧陵の考えで少しでも働けるものにはそれ相応の仕事を与えて収入が得られるようにしたのです。また、仕事が終わればその日の日当をすぐ支払ったので村人たちは大いに喜びました。しかも、農業の忙しい時期をさけて冬に入って工事を再開するようにしたので村人たちにとって仕事のきれめない収入があることにもなりました。

 防波堤の全長は約六百五〇メートルもあり、外側には松を二列に植え、土手にはハゼの木を植えともに堤防を強固にする役割をはたしました。また、ハゼの木を植えたのはロウソクのロウをとるねらいもあったと思われます。

 安政五年十二月、梧陵は大工事を中止することにしました。江戸の出店をほっておけなくなったことや、日本が鎖国の政策をやめるかどうかの瀬戸際にあっていっそう国内の緊張が高まり広の片田舎にいることができなくなってきたのです。

 当初の計画の三分の二に終わったとはいえ、それは立派な防波堤ができ上がりました。この大工事には人夫が合わせ五万六千七百三十六人、今の金にしてざっと五千二〇〇万円の巨額の金額がついやされました。

 梧陵の築いた防波堤は、昭和二十一年の南海大地震の大津波にもびくともせず広の町を守りました。

 今でも広では毎年、あの安政の大地震のあった旧十一月五日を選んで津波祭りをしています。


「浜口大明神」に反対する

 莫大な私財を投げ売って村人たちの生活を救った梧陵に対して、人々は「神や仏にまさる大恩」と感謝し、彼を浜口大明神(みょうじん)としてまつり子孫にまでその徳をたたえようとしました。早速、神社を建てるための材木も用意されました。

 しかし、この話を伝え聞いた梧陵は 
「自分は神仏になど毛頭なりたいと思わない。ただこの広村の人々が去っていかぬよう、昔の広村にもどしたいと思ってしただけのこと。決してそのようなことはしてはいけない。」
とさとしました。

 郷土の英雄として尊敬を集めている浜口梧陵はさらに多くの功績を残して明治十八年六十六才で亡くなりました。

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