嵐の中

 心に病を抱えたことがなく、周囲に心を病んだ人間がいない人は幸運である。(こういった表現は適切ではない)
 心に病を抱えており、あるいは抱えたことがあり、また周囲に心を病んだ人間がいる人は不幸である。(こういった表現も適切ではない)

 幸か不幸かは別として、心の病が発露している状況を見たことがない人は少ないと思われる。見たことがないと言う人は、自身について心配した方が良さそうだ。それはともかくとして、心の病が発露している時に見られる現象にはどのようなものがあるだろうか。
 独り言、落ち着きのなさ、一貫しない主張、癇癪、等々。これらに共通して見られるのは音としてのうるさいこと、目で見て煩わしいこと、これを併せた騒乱である(逆に完全に沈み込んでしまって音も発さず、動きもしないケースもある。しかし、一般にそのような人を見ることは難しい。また、微動だにしない人間を見た人は静けさを感じるよりも、その中にある騒乱を想像するのである)。いったい果たして、彼ら彼女らはまことうるさいものである。一見すると、コンテクストに関係なく、一人で盛り上がっている(もちろん複数でも)。それゆえに、病に縁のない人や、発露を隠している人は、その奇行を鋭敏に感じ取る。感じ取られてしまう。そういった発露を、単に頭がおかしいだけと片付けるのは簡単なことであるが、別の解釈が可能なのではないかと最近気付いたので、書き留めておきたい。
 私は医者でも専門家でもない。心の病はそれぞれが病と呼べるのかどうかも含めて議論の余地があるし、第一、症状のスペクトラムは極めて広い。そのため、一般化しようと試みているわけではない。ただ観察と経験から、分析した結果を残そうとしているだけである。それくらいならば許されるだろう。そしてこのくらい回りくどい文を残さなければならないことを歯がゆく思う。また、敢えて鬱や不安などの病と障害を区別していない。これらに接近したことがある人であれば、その境界が極めて曖昧なものだと気付くだろう。人の心は社会の中に存在するが故に、個人の病であるのか社会の病であるのかの判断は常に恣意的だ。心の病が増えているのは、社会がそれを病と呼ぶからだろうか?それとも社会が病んでいるから心が病むのだろうか?心療内科がどこもかしこも千客万来商売繁盛(この表現も不適切)しているのを見れば、患っている人々が増え続けていることは感覚的に理解できる(単にクリニックの供給が足りていないわけではないだろう)。

 ところで話を戻すと、彼ら彼女らに見られる騒乱は、表象的なものではない。その内側から漏れ出ている、ごく一部なのである。こういった人々の特徴は思考の「発散」にある。常に誰かが、それも複数が頭の中でしゃべり続けていて、主体となる意識のコントロールを外れている。うるさく感じているのは周囲だけではなく、本人も同様なのである。頭の中にいるおしゃべり野郎共は休むことを知らない。何をしていようが、誰と話していようが、お構いなしなのである。しかも、おしゃべり野郎共は五感に自由にアクセスでき、しばしば会話に割って入る。
 常に思考が発散しているのであるからコミュニケーションがうまくいかないのも当然で、単語やテーマが脈絡なく他の要素に結びついて独自の主張を発したり、質問の意図を二重三重に探ろうとして回路がショートしたり、上の空であったりする。思考の発散は文字通り、思考を枝分かれさせる。それは一方向ではなく、蜘蛛の巣状に、全く別々のベクトルに展開される。言葉のキャッチボールは多弾頭ミサイルと化して、しかし意識による処理と発音には限界があるため、支離滅裂で滅茶苦茶な爆風が放たれるのである。
 
 つまり、こういった人々にとっては、心が嵐の中にあり、嵐自体が心なのだ。常に騒乱の中にあるのである。うるさいのはおれではなくてうるさくしているおれ、なのである。
 こうやって考えると、彼ら彼女らが集中を苦手とするにも関わらず、時として常人を遥かに超えた過集中を見せる矛盾にも説明が付く。おしゃべり野郎共を黙らせ、無視することができる行為は救いなのである。単純作業や反復運動は極めて有用だ。常に新しい目標を提供してくれるゲーム、高揚感で脳を支配するギャンブルも良い。筋トレやランニングなどの激しい運動は考える余裕を奪うことができる。
 集中できないことに苦しむ一方で、集中だけが救いなのだ。嵐の中の静けさ、である。集中しないと救われないのに集中するのが苦手なんて、何の罰なのだろうか。

 この分析は別に擁護や批判を意図していない。ただそう見えたから書いてみているだけだ。だから以下に書くことも慰めや自己弁護ではない。
 嵐の中にいる人々の発散した思考はベクトルが打ち消し合って、外から動きは見えない。言い換えると、何も有用なことを考えているようには見えない。しかし、思考のエネルギーは、嵐の威力は、そうでない人の思考する力よりも大きいと思われる。発散する思考を収束することができれば、大きな力になるに違いない(それが難しいのであるが)。実際、思考の発散を制御できる人も少なくない。収束できなくても、せめて嵐自体を支配化に置くことができれば、普通のフリはできるのである。反対に制御できないほど嵐が強くなると、自己は「引き裂かれた」状態になる。
 以上を踏まえれば、病める人は嵐を支配するか、嵐から逃れる術を見つけてうまくやっていくしかない。元よりそのつもりもないが、私にはアドバイスなど到底できようもない。翻って、病に縁の無い人には理解や擁護、憐憫は求めない。そうではなく、想像して、恐怖して欲しい。嵐を飼い殺している人間が近くに潜んでいるのだ。あなたが気付いていないだけで、彼ら彼女らは、すぐ隣で嵐を身に纏っている。いつその嵐がぶつかってくるかはわからない。何故なら発散する思考は暴走するからだ。そう考えれば、嵐を制御できない人々に対して別の感情を持つこともできよう。

 視点を社会まで戻してみれば、より問題は深刻となる。発散は社会によって病扱いを受けているが、社会は病んでいないのだろうか。
 例えば、現代社会は日本も含めて、決まった方向へ発展し進展し進み続けていくというドグマに支配されている。グラフは右肩上がりではなくてはならないし、年表はたいてい矢印で左から右に進み、戻ることはない。時間を戻すことはできないから当たり前かもしれないが、それでは何故時間を一次元的に表すことには無批判でいられるのだろうか。
 社会が進歩し続けているという考え方は、キリスト教をはじめとした一神教の教義の延長線上にある。しかし、これが人類をまっさらな状態に置いたときの自然な考えだと言い切ることはできないだろう。諸行無常や輪廻といった概念が示す時間感覚は線ではなく円だ。発散を円と呼ぶのは強引過ぎるが、しかし線よりは円である。発散する思考を社会が求める方向に合わせることは端から困難が伴うのだ。とはいえ、この強固なドグマをどうこうすることは現実的ではない。せめて嵐を愛して、嵐の中でも踊ることができるようになれば、救いはあるだろうか。

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