「未来は変えられない、変わっていく。そういうものだ。」 〜 『スローターハウス5』読書会にて
先日、カート・ヴォネガット・ジュニア著『スローターハウス5』を読みました。読書会の課題図書だったので先入観なく読み始めたのですが、読了前後の印象がまったく異なる不思議な本でした。
『スローターハウス5』とは
第二次世界大戦 終わり間近の1945年2月、連合国軍が行ったドレスデン爆撃を下敷きに書かれた小説です。著者カート・ヴォネガット・ジュニア氏はアメリカ兵として従軍していましたが、前年末にドイツ軍の捕虜となり、当時ドレスデンに移送されていました。13万人以上が亡くなったとされるこの爆撃を地上で経験した一人です。
本作は、ヴォネガット氏が体験した出来事を交えた半自伝的小説でありながら、登場人物のキャラクター設定が非常にユニークだったり、トラルファマドール星人という宇宙人が登場したり、頻繁に時空浮遊(タイムスリップ)するなど、SF的要素がふんだんに盛り込まれた作品でした。
以下、心にひっかかったフレーズを中心に記載します。
「そういうものだ (So it goes)」
本書には、著者が意図して仕掛けた繰り返しフレーズがあります。人や生き物、あるいは物体の「死」を表現した直後の文末で、さらっと語られる「そういうものだ。」です。
例えば、いちばん最初はこんな流れで登場します。
運転手の名は、ゲルハルト・ミュラー。彼も一時アメリカ軍の捕虜になったことがあるという。(略)だが今はずっと楽になった。小さいながらも快適なアパートに住み、ひとり娘はすばらしい教育を受けている。母はドレスデンの猛火のなかで焼け死んだが……。そういうものだ。
物語に入り込んでいるところでポンッと突き放すように登場するため、読んでいてすごく違和感があります。しかも、このフレーズは「これでもか!」というほど何度も登場します。(Kindle検索で調べた友人によれば、登場回数は106回!)
諦め? 虚しさ? 達観? 悟り? どれも当てはまりそうですが、どれでもない気がして…。
本書を読み終えてもモヤモヤは残りましたが、とりあえず「死は必ずしも悲しいものではない」という考えが刷り込まれました。
過去、現在だけでなく、未来も変えられない!?
作中に2回登場する印象的な詩があります、
神よ願わくばわたしに
変えることのできない物事を
受け入れる落ち着きと
変えることのできる物事を
変える勇気と
その違いが見分ける知恵とを
さずけたまえ
どこかで聞いたこと、ありませんか?
これは「ニーバーの祈り」と呼ばれる有名な詩(の一部)。作中では、主人公ビリー・ピルグリムの開業した眼科病院オフィスに飾られています。そして、時間浮遊をする主人公ビリーの立場で、こんなフレーズが付け加えられています。
ビリー・ピルグリムが変えることのできないもののなかには、過去と、現在と、そして未来がある。(p.86)
「え、未来も変えられないの!?」
読んでいて思わず反応し、ページの余白にメモしていました。
「変える」ではなく「変わっていく」
冒頭にも書いたように、この本との出逢いは毎月参加している読書会人間塾の課題図書として、でした。
読書会当日は、本書内の響いた箇所について、自身の体験と絡めて紹介する時間があります。(自己開示は強制ではなく自発的なもの。あくまでも話したい人が話すスタイルです)
で、参加メンバの1人が響いた箇所としてあげたのが以下でした。
人生のなかばを過ぎるころ、トラルファマドール星人がビリーに助言することになる。幸福な瞬間だけに心を集中し、不幸な瞬間は無視するように──美しいものだけを見つめて過すように、永劫は決して過ぎ去りはしないのだから、と。もしビリーにその種の選択が可能であったなら、彼はもっとも幸福な瞬間として、馬車のうしろで日ざしをいっぱい浴びながらうたたねしたこのときを選んだことであろう。(p.256-257)
この小説のなかでは、トラルファマドール星人は四次元空間に存在しており、すべての時間を同時に視ることができる、という設定です。著者ヴォネガット氏は、この宇宙人を使って「時」や「瞬間」に対する新たな考えを、現代人に提唱したかったのかもしれません。
上で述べたニーバーの祈りの話もふまえ、先ほど紹介した彼が自身の辛い体験と重ねて語ったのは、「未来」の捉え方についてでした。
未来は変えられるものではない。変わっていくものである
この言葉はよくよく味わいたいです。
未来を意識的に変えよう、ともがくのではなく、今やれることを積み重ねていくことで、気づいたときには未来が変わっている。そういう形が自然の摂理だ、と僕は理解しました。
時間浮遊ができるようになった主人公ビリーも、過去にもどった際に未来を変えようという行動は起こしません。同僚や妻の不慮の死も分かっていながら「そういうものだ。」として淡々と受け入れていきます。
逆説的ですが、そういうスタンスこそが、結果的に変わっていく未来を前向きに受け止める(引き寄せる)ことにつながる。いま改めて考えると、そんな風に感じます。
おわりに(8月に読んだ意味)
本書をきっかけに知ったのですが、ドレスデン爆撃では、十万人以上の一般市民が亡くなったとされています。ヴォネガット氏は作中で広島の原子爆弾による市民被害もからめて紹介しています。批判めいた書きっぷりではなく、致し方ないと主人公に語らせながらも、この部分にだけは、「そういうものだ。」で片付けられない「怒り」のような感情が感じられました。
それを裏付けるかのように、ビリーのストーリーに入る前(1章)に書かれた、ヴォネガット氏自身の語りにこんな表現があります。
わたしは息子たちに、どんな状況にあろうと殺戮には加わらないように、敵兵殺戮のニュースがはいっても喜んだりはしゃいだりしないようにと言いきかせている。
またわたしは息子たちに、殺戮機械を作るような会社には勤めるな、そうした機械が必要だと考える人びとは軽蔑してよいとも言ってきた。(p.34)
その場に居合わせてしまってからでは流れは止められない。その前の今この瞬間の判断や行動で未来は変わっていくのだよ。ヴォネガット氏が言いたかったのはそんなことだったのではないでしょうか。
本書と8月に出逢えたのは、意味あるタイミングだった気がします。
気になった方は、ちょっととぼけた表紙イラストに惑わされずに読んでみることをおすすめします。
※月に1回 課題図書を読む読書会を開催しています。ご興味ある本があれば気軽に声をかけてください(次回 9月28日は中村天風 氏の『運命を拓く』)
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