西武大津店を作ったうちの父はいろいろとイノベーターだった
おかげさまで前回の記事「西武大津店を作ったのはうちの父だった」が大好評で読まれています。自己のnoteでは初の週間1万アクセス突破も達成、「成瀬は天下を取りにいく」人気に乗っかった感はありますが何よりも西武大津店は本当に愛された百貨店だったことと一つの商業施設がその街に与える影響やカルチャーが実は計り知れないほどの大きさがあることについて知ることができました。そして改めて父の仕事について思い出を振り返る機会を与えていただいたのでもう少しだけ父に仕事について思い出を語る記事を書かせてください。
父が関西に進出して最初に手掛けた心斎橋パルコは1971年の開店、2011年には閉店となっております。やはりこの時期の建築は耐震法の変更などもありちょうど40年ぐらいで様々な問題が起こるようです。父は心斎橋パルコは敷地面積が狭すぎてどうしようも出来なかったとボヤいていました。個人的には最上階にあった心斎橋クラブクアトロが印象に残っていてポリドール移籍後のフィッシュマンズのライブをいつも見せてもらいました。それにしてもこの最上階フロアはクアトロに改装される前は何があったのでしょうか。
西武タカツキショッピングセンターは前の記事でも書きましたが父としても色々な試みを行った商業施設でした。当時は自分も高槻市に住む小学生だったのでしょっちゅう通っていましたが子供心に衝撃的だったのが巨大な本屋さんでした。1970年代当時、関西エリア最大の書店だった梅田の紀伊國屋書店とまではいいませんが当時の高槻市市内にはこんな大きなスペースの書店は無かったと思います。ブックファーストやジュンク堂書店が登場するのは1990年代半ばかと思いますのでこの巨大書店の登場は20年以上も早かったと思います。後で西武大津店で展開してたマンガ専門店もこの巨大書店のマンガコーナーがプロトモデルとなっていたと思われますし、現在でも紀伊國屋書店が入っておりその伝統は引き継がれているようです。そして書店と同様にレコード店も大きかった。確か三木楽器さんが入っていて楽器売り場も充実していた記憶があります。
さらに開店当時は隣接して高級オーディオを扱う店もありそこにけっこう大きな試聴スペースも確保されていたと記憶しております。自分はこの場所でプログレッシブ・ロックのイエスの1975年クイーンズパークライブの上映会イベントを見た記憶があり、アルバム「海洋地形学の物語」に収められている長大曲「儀式」の動くセットの映像が印象に残っております。上映会は無料でしたがもっと年上のお兄さんたちでいっぱいでした。まだ中学2年生ぐらいだったのでイエスがどういうグループか全くわかっていなかったですが思えば翌年お年玉を貯めて「イエス・ソングス」を購入したことを思い出しました。後にレコード業界で仕事を始めた頃に知り合ったワーナーミュージックで務めていた先輩から「昔はレコード店の店頭で洋楽アーティストの上映会イベントを良くやったものだよ」と洋楽系の販促イベントのお話を聞いたことがありました。当時は特にクィーンの上映会が女子に人気だったと仰っていました。本もレコードもオーディオの各ショップも完全に父の趣味の領域だったような気がしますが、郊外に出現した新しいデパートが新たな文化を発信しており、子供心にいつ行っても楽しいデパートだったことは間違いなかったです。
noteでも他の方が昔の西武高槻店について書いている方がいたので引用させていただきます。
カイコさんの記事にもありましたが1階の壁側にダンキンドーナッツのカフェスタンドが入っていたのですよ。まだミスタードーナッツがスタートする前でしたがアメリカのダイナーのようなスタンドだけのとてもおしゃれな店構えで、濃い味のコーヒーはおかわり自由でしたが小学生にはかなり大人の味だったけど頑張って飲んだ記憶があります。残念ながらダンキンドーナッツは随分前に日本から撤退してしまったけどアジア各国ではまだまだ健在で、一昨年フィリピンに短期留学した際に学校の近くのモールでダンキンドーナッツに再び出会えてとても嬉しかった思い出があります。
そして当時子供心にとても違和感があったのが地下1階にスーパー「関西スーパー」があったこと。70年代半ばの子供心にはでスーパーはデパートより格下の商業施設であり同じ建物の中に共存することはないと思っていました。なぜデパートの中にスーパーがあるの?と当時率直に父に質問したような気がします。すると父は確かこう答えたと思います「それは毎日お客さんに来てもらうためさ」。自分は最初何のことを言っているか良くわかりませんでしたが後に百貨店とスーパーマーケットの来店頻度の違いについてどこかで知り自分なりに理解したように思います。今ではデパ地下に生鮮食料品売り場がありスーパーマーケットのようにレジ方式で展開するなんてごく当たり前のこととなりましたが当時の西武高槻SCにおける関西スーパーがインストアするということは非常に斬新であり、結果デパートなのに毎日地元の人が来店する、そして50年経って阪急高槻にリブランドしても今でも変わらず地下1階には「関西スーパー」があるということは非常に先見性のあったファクトだったのではないかと思います。
このように西武高槻SCでのいろいろな実験とその成果を踏まえて西武大津SCの開発されたことは想像に固くありません。また当時の世相を反映したと考えられるのが建築家 菊竹清訓さんによる外階段を多用した設計。ちょうど70年代前半、立て続けにデパートでの大きな火災が連続して起こり最大の死傷者を出してしまった大阪の千日デパートや熊本の大洋デパートの大火災が連続して発生した時期。高槻西武SCも開店6日前に放火により火災を起こしてしまい結局大改装して再び開店に持って行くには丸一年かかってしまったようです。そんなこともあり大型商業施設の避難設備についてはより厳しい要求がはいることとなりその結果、避難階段をたくさん外側に持つという西武大津SCの独特な構造に至ったのだと思われます。その辺りについて当時菊竹事務所で働いていて建設現場にもいらっしゃった設計士さんの寄稿がありましたので引用させていただきます。
また同じ「しがトコ」さんの記事で「ありがとう、西武大津。歴史と軌跡を振り返る「西武大津店44年のあゆみ展」についての記事もありました。懐かしい77年の開店当初の写真が満載です。そうそう「ホビー館」あったなあ。鉄道模型とかアウトドアとか、もう少し大学生とかちょっとお兄さん向けの品揃えだった気がします。それとおもちゃを直す「おもちゃ病院」も父が作るよと話していた記憶があります。すでに中学生だったのでおもちゃにはもうあまり興味もなく父からちゃんと内容を聞いておかなかったことが悔やまれます。あとこの記事内の写真にあったオープン記念のマグカップですが色違いの黄色のものがつい先日までうちにありました。縁が欠けてしまい捨ててしまいましたが写真とっておけばよかったな。
それにしてもあらゆる面で西武大津SCは西武高槻SCをさらに洗練された商業施設であったことは間違いありません。父にとっても西武大津店は記憶に残る傑作だったでしたし、「成瀬は天下を取りにいく」の原作者、宮島美奈先生が『ありがとう西武大津店』を書き上げる前から運営されていた地元・大津を紹介するブログ「オオツメモ」でも西武大津店への愛が溢れていました。宮島先生も魅了する自慢の地元の店だったに違いありません。
その後、父は大阪の八尾や愛知の春日井(当時は西友の施設だった)の開発に着手、また兵庫の尼崎市塚口のグンゼ工場跡地の取得(後のつかしんになる店舗です)まで関わっていたと思いますが関西から東京本社に戻され当時、西武百貨店の傘下にあった衣料品ブランドチェーンの立て直しを命じられたようです。自分のちょうど高校入試が絡んでいたので父の転勤に振り回される感じでしたが、東京に戻ったら戻ったで当時の東京の衣料品店や後のDCブランドとして成長していくメルローズやBIGI、ビームスなどのショップ見学に一緒に行ったものでした。そこでも父は今の衣料品業界を見通すようなある予言をしていました。それについてはまたいつか機会があれば書いてみたいと思います。またまた身びいきな記事になってしまいましたが長々とお付き合いいただきありがとうございました。
最後に2016年頃に自分が西武大津店を訪ねたときの写真と父の残した写真をいくつか共有させていただきます。
【5月1日追伸】
前記事で書いた西武大津SCで父が作ったマンガ専門店について記述された記事を発見しました。私が行った時も沢山の子供たちが座り込んでマンガを読みまくっていた風景を鮮明に覚えています。思えば1983年の「アニメイト池袋店」の誕生より6年早かったのですね!
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