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食の安全を意識せざるをえない

先日読んだ本の中で書かれていた、18世紀や19世紀あたりの「食の安全」についての内容が、なんとなく頭の中に残っていてあれこれと考えている。

その中でも紹介した、たべものラジオの1エピソードで、同じように約100年前ころにあった「食の安全」について語られていた。

あるいは、イナダシュンスケさんの相談箱に寄せられたこの話題。おそらく生レバーと思われるものが提供された経験と、そこから外食における「食の安全」についての話題。

現代では、食べる人の身を守るのは本人ではなく提供者側、ということになり、消費者は原則的には警戒しなくて良くなりました。

自分の場合を見ても、生まれてこの方「食事において生命の危険がある」なんて意識を常に持っているかというと、そうでもない。せいぜいが「塩気が強すぎないか」「腐っていたりしないか」といったくらい。例えば「妙な薬品が混ぜられているかも」とか、「普通だったら食べないような◯◯が入っているかも」とか、「健康被害がでるほどの量が含まれているかも」なんてことは、基本的に考えない。

でも、いろいろな情報に触れていく中で、100年前はそういうのが当たり前だったことがわかってきた。そして現代においても、100%安全かといわれたらそんなことはないわけで、どこかで「危ないかも」と疑ってかかる思考回路は、持っていても良いんじゃないか、と思い始めている。

こういう考えは主に外食において持つことになると思うのだけど、こうなると疑いながら食べることになって、そんな食事は正直言って味気ない。どこかで信頼しないと、とてもじゃないけど食べられないし楽しめない。

信頼を置くための指標として、例えば大手チェーン店とか、個人的に馴染みのある店主のいる店とか、何かしらの基準を持つことになるわけだけど、このあたりをもう一度フラットな視点で考えてみるのも、何かしら意味があるようにも思えてきている。つまり、食の安全については、自分で主体的に確保していかないといけない、という考え。

日本においてはよほどのことがない限りは99%信じられるレベルだと思うけれど、残りの1%に当たる確率というのも思ったよりも低くはない、と思っておかないといけないのかな、と。

というようなことで思考を巡らせてみると、自分がなんとなく外食を避けるのは、たぶん心の奥底でこういう思考があるからなんだろうな、ということに思い至る。どこかで信頼しきれていないというか。

まあそれは安全性という観点というよりも、たとえば塩分が多すぎるとか油分が多すぎるとか野菜類が少なすぎるとか、そういう点であまり食べたい方向のものとマッチしないから、というのがあるからかもしれない。あとは、作る楽しみも知っているので、こういう料理が食べたい、と思ったら自分で材料揃えて作ってみたくなる。たとえそれが失敗であっても別に良くて、自分で失敗したものを自分で食べるのは全然許容できる。

ちょっと論点がずれた気がする。味や栄養などの好みの話とはまた別の次元の話なので、ここを一緒くたにしてしまうのは良くない。

食べて危険なものが混ぜられていないか(さすがに現代では考えにくいが)、
適切に調理されているか(十分火が通っているか、生や半生でないか)、
調理後の保存方法は適切か(食中毒などの危険性はないか)、
さしあたっては、このあたりくらいは気にするようにしても良いのかもしれない。

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