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伊勢遺跡の謎に迫る エピソード2    伊勢遺跡 誕生物語 前編

これは大地の悪霊により壊滅的な破壊を受けた倭之国(中國の歴史書で
倭の人が住む国)が復活に向けて立てた計画と実行の過程を、
発掘成果と科学的情報を基にして記すフィクションである。
伊勢遺跡の謎に迫るために、
 ・双子の祭場 伊勢遺跡は、伊勢神宮の祖型か?
 ・伊勢遺跡の方形区画は、卑弥呼の居処か? 
の謎解きに挑み、その可能性を述べた。
さらに、伊勢遺跡の円周上配列の祭殿群の謎に迫ろうとしているが、
このためには伊勢遺跡誕生前の大事件と銅鐸祭祀のクニグニがどのように
対応したかを知っておく必要がある。
ここに記す物語はフィクションとしか言いようがないが、発掘事実と
科学的観測事実ととても相性が良い。

hiro@moriken 記す

大地の悪霊の怒り

ワシは近江のクニに古くから住み、長らくこの地や倭之国の移り変わりを
見てきたのよ。
大地の悪霊がもたらした惨事や伊勢遺跡の誕生も記憶にある。
忘れないうちに話しておこう。

大地のカミガミは穀類の恵みを与えてくれる慈悲深い存在であった。
豊かな水を田んぼに導き米を育て、川や湖で魚を獲った。
秋には実った米を収穫し、高床倉庫は満たされた。
人びとは土坑を掘り供物を入れて地中を通して感謝の念を大地に
伝えていた。
また、米作りの節目には光り輝く鐘を打ち鳴らして祈りを捧げた。

平和だった日常生活(イラスト:中井純子)

ところが今回は違った。
倭暦元年、倭之国は大地の悪霊が引き起こした、
大地震・大津波・超高潮に見舞われた。
倭暦元年と言えば、西暦10年頃に相当するが、
倭之国の歴史上、未来の日本国で観測される地震と比べても、
はるかに大きな地殻変動が発生した。
後に南海トラフと呼ばれる地殻が動いたのだ。
地震や津波の規模もけた違いに大きい。

2000年前の巨大地震ともたらされた災害

倭の人々は大地の悪霊の仕業と考えた。
程度の違いはあれ、倭之国全体が揺れ動いた。
海に近い集落は住居だけでなく、丸太を組み合わせた頑丈な掘立柱建物も
倒れた。
樹木も倒れた。崖も崩れ山津波が生じた。
四国、近畿南部、東海地方は巨大津波に襲われた。
海岸部では、集落で一番高い木の上に達する津波であった。
津波と大地の揺れで、池上曾根集落の、あの目もくらむように
巨大な神殿も倒れたと聞いた。
瀬戸内地方は、淡路島が大阪湾からの津波を遮り、
四国西部では佐多岬が津波の勢いをそいだ。
水の勢いは削がれたとはいえ、水かさは瀬戸内の人々がこれまでに
経験したことのない高潮になった。
瀬戸内の集落や港は壊され、舟は流された。
人々がこれまでに築いてきた水運ネットワークが壊滅したのだ。
内陸部は津波の被害が無かったものの、
地震の揺れで大きな被害が出ていた。
川の水は竜のように暴れ狂い洪水となって集落を襲った。
大阪湾につながる淀川には大きな逆流が生じ、中流域にあった安満集落は
川のがれ石に埋めつくされ、人々は近くの高地に集落を移したそうだ。
川の流れによる禍は内陸部にも及び、唐古・鍵集落の巨大な
神殿や主殿を押し流したと伝え聞く。
近江では、びわ湖の水が荒れ狂い、川を逆流して集落を襲い、
行き場を失た水流は大地を割いて新たな流れを作った。
びわ湖岸の服部集落は、新たに生まれた激流でズタズタに
引き裂かれたそうだ。
 
津波や高潮に襲われた人々は高台に逃れた。
大地の揺れは一度きりではなかった。
揺れの大きさは幾分小さくなったものの、度々生じた。
大地の悪霊の怒りが徐々に治まっていくのだろうか。
かろうじて生き残った人びとは、悪霊が一息ついている間に、
最初の大津波が達しなかった高い山地に簡素な建物を作った。
一家族だけででいるのは恐ろしく、あちらこちらから人が集まり、
簡素ながら小さな集落のようになっていた。
後の世の考古学者は、九州勢が攻め込んでくるのを恐れて
見張り小屋を作ったとか、戦乱を恐れて逃げたとか、言っているようだ。
恐ろしい津波から逃げた仮の避難住居なんじゃがな~。

悪霊の怒りが小さくなるにつれ、簡素な建物は手を入れあるいは建て直し、共用の建物を建てて昔の集落の様相を持つ集落が現れた。
大阪湾、瀬戸内の海岸沿いの高地には、雨後のタケノコのように、
一斉にこのような小さな集落が出現した。
後の日本人は「第1次高地性集落」とか呼んでいるようだが・・・。

高地の簡素な住居で一息ついた人々は、
米作りの豊穣を願う大切な祭器(後世の人は銅鐸と呼んでいる)を探しに
出かけた。
大切にしまっていた収納小屋は壊れ、押し流されていた。
探し出した祭器は大地の悪霊に見つかって持ち去られないように、
津波が来ないより高い、見つかりにくいクニ境に穴を掘って収めた。
この考えは多くの集落で共有され、
祭器は「より高く見つかりにくいところに埋めて保存する」ようになった。
後の日本人は、「銅鐸は埋めて保管する」とか「第一次多量埋納」とか
言っているようだが、
悪霊に見つからないように隠しているのが分からないようじゃな。
平穏な世であれば、収納小屋に大切にしまい、ピカピカに磨き上げたい
ものよ。
あのようなキラキラした輝きと澄んだ音色が良い米を作る祈りに
ふさわしいのじゃが残念だ。
時がたつにつれ悪霊の怒りも静まってきて、
多くの高地の集落は短期で消えていった。
大きな集落はそのまま残るものもあったが、
平地に戻る人が現れるようになった。

新たなスタート

でも人々はくじけなかった。集落の再興を誓って活動を始めた。
が、難題があった、多くの人が亡くなりあるいは行方不明になって
人手が足りない。
住まいは高地にあっても、米作りには水の便の良い平地でなくては
ならない。
土地は泥や砂礫で覆われており、それらを取り除き、
灌漑設備を整備し、田んぼを作り直さなければならない。
なにせ人手が足りない。
隣のクニとも相互に協力し合い復興作業を進め、
一つのクニにまとまったところもあった。
津波で種籾を無くしたクニは内陸の国に支援を頼み、
強い影響を受けざる得なかった。
中には、王族の絶えたクニもあり、
隣国の支配下にはいらざるを得なかった。

大地の悪霊が引き起こした災害の前には100余のクニがあった。
このように復興の過程で、クニは半分ほどにまとまっていった。
 
人びとは、新しいスタートに際し年号を「倭暦」と定め、
それ以前と以後を区別した。
後の世の考古学者は発掘の結果、大きな社会変動を目の当たりにして
時代を区分した。
それを弥生中期の終わり、弥生後期の始まりとした。
しかし、彼らは正確な大災害の年代を知らない。
それが分かるのは2000年の後のことである。
そのため、考古学者によってその画期が違っている。

地のカミは何を望むのか

悪霊の怒りが落ち着いてきて田んぼの整備が進むと、米作りを始めた。
これまでの慣習に従い、春や秋の稲作の大切な時期に「光り輝く鐘」を
掘り出して使った。
でも残念ながら、埋めた祭器は輝きを失い濁った青色に変わっていた
 
倭之国の人々は考え始めた。
我々は大地のカミを怒らせるようなことをしたのだろうか?
あるいは祈りが足りなかったのだろうか?  と。
 
悪霊が災害をもたらす前、倭之国で光り輝く金属の祭器を用いて
祀りごとを執り行っていた。
地方によって祭器の形状は異なっていた。
九州では武器型祭器、近畿では銅鐸型祭器、
中国・四国では、両方を使っていた。
近江や東海では、一部のクニが銅鐸祭祀を行ってはいたが、
数は少なかった。

弥生時代中期の青銅器祭祀の分布

大地の悪霊がもたらしたすざましい災害を目の当たりにした人びとは、
これまでの祭器ではカミは満足しない、と考えた。
あるものは光り輝く金属をより強力にするのが良いと考え、
九州・四国族は、広幅の大きな銅矛を作り、近畿・東海族は新しい形の大きな銅鐸を作った。
また、あるものは光り輝く金属の祭器ではダメだと考え、
大きな墳丘や土器を造ることにした。
銅鐸を捨てた出雲族は四隅突出型墳丘を、
吉備族は大きな特殊器台を創出した。

弥生時代後期の祭祀

銅鐸を祭器として継続した近畿・近江・東海族も、
従来の使い方とは違ってきた。
稲作の豊穣を願った祭祀から、悪霊を鎮めるための祭祀へと。

見る銅鐸

近畿族の中でも、古い銅鐸祭祀に熱心だった摂津族は銅鐸を
あきらめてしまった。
近江・東海は古い銅鐸祭祀はあまり盛んではなかったが、
新しい銅鐸こそが力であると確信し大きな銅鐸作りにまい進した。
この結果、
大地に埋められた古い銅鐸はそのままで忘れ去られてしまった。

銅鐸もより強力にするためには、より大きくあらねばならなかった。
ただ、近畿・近江族と東海族とでは形状に違いがあり、
それぞれ近畿式銅鐸と三遠式銅鐸と区別して呼ばれた。
小さなクニグニは、自らが属する族の方針に従って大きな銅鐸を
作るようになった。

2000年前の大地震の後、巨大化する銅鐸

同じ銅鐸祭祀圏とは言いながら、形状の違いは意見の違いも内在していた。
このため、近畿族と東海族はギクシャクしており、地理的に両者の間に
ある近江族は双方の取り持ちに心を砕いていた。
両者の関係を取り持つのは苦労でもあったが、
情報を得るという意味では役立った。
このことが、後々重要な役回りを果たすことになろうとは
思い及ばなかったが・・・。 

再び大地の悪霊の怒りが

ワシの記憶では、倭暦50年再び大地が大きく揺れた。
50年前の大地震、大津波の後も、余震という揺れが時々発生していたが、
今回のものは、久々の大きな余震であった。
50年前の記憶がよみがえり、人々の対応は素早く適切であった。
津波に対処するため高地へ逃げ、簡素な一時避難住居をこしらえた。

50年前の地震に比べ、規模は小さく東海沖寄りだった。
このため、高地に作られた仮設集落は数も少なく、
東海側に多くなっていた。
それでも復興しつつあった建物や施設が壊れたのは痛手であった。
おかしいことに、悪霊の災害のうわさを聞いた遠方のクニでも
高地に住居を移す者もいたな。
切羽詰まった様子ではなく、ゆるりゆるりと移住していた。
 
人びとは考えた。
これまでクニグニがより大きな銅鐸を作って祈ったが、
悪霊を鎮めるには不十分だった。
クニグニがばらばらに祈ってては力が分散されて効き目が
ないのではないか?
近畿式だの三遠式だのと言ってクニグニがいがみあっていて、
力を合わせていないのは良くない。
何よりも、隣のクニの様子はかろうじて分かるものの、
その向こうのクニとなると伝聞でしか情報が伝わってこない。
隣接する3~4のクニグニが集まって話す内容はほとんど同じであった。
力を合わせ一致団結して祈るためにはどうしたらいいのだろう?
誰かが音頭を取って銅鐸を祀るクニが集まって話し合って
対策を決められるといいのだが・・。

ワシもこれまでになく長く話してもう疲れた。
これからが近江族の活躍の場となり、
クニグニがまとまり伊勢遺跡の誕生に結びつくのじゃが・・。
続きの話はまたの機会にしよう。

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