伊勢遺跡の謎に迫る エピソード2 伊勢遺跡 誕生物語 後編
前編のあらすじ
悪霊の怒りを鎮めるには
隣接する3~4のクニグニが集まっては話し合っていた。
地中の悪霊を鎮静するためには、より大きな力で押さえ込み、
服従させねばならないのに銅鐸を祀るクニグニがいがみあっていては、
負けてしまうのは仕方ないことだ。
力を合わせ一致団結して祈るためにはどうしたらいいのだろう?
誰かが音頭を取って銅鐸を祀るクニが集まって話し合って
対策を決められるといいのだが・・。
近江の王が動いた
近江の王は野洲川デルタの上流側の高乾地、(後に伊勢遺跡となる地域に
近い)中沢集落に建てた仮の宮殿を住まいとしていた。
物見台はまだなく、祭殿も仮のものだ。
王は、倭暦元年の大災害でびわ湖から逆流してきた水に押し流された
田畑の復興・整備に追われ、宮殿の再建は遅れていた。
地霊の怒りを治めるため、先祖がず~っと行ってきた土坑祭祀を
懸命にやっていた。
祈りの場所で、せっせと繰り返して土坑を掘り地のカミに願いを
伝えるのだ。
「怒りを起こさないで下さい」と、憑かれたように土坑を掘り
祈り続ける・・・。
なんで天のカミに祈らないのかって?
栽培作物もそれを育てる水も、
あらゆる生命も地下に住まうカミによって成長するのよ。
そのカミに祈り呼び寄せる道が土坑なんじゃ。
だから掘って掘って祈るのよ。
中國の魏書の東夷伝にも書いてあるんじゃ。
朝鮮半島の北のクニグニの条には「天を祀る」と書いてあるが、
朝鮮の南端の弁辰と倭は「鬼神を司祭し、異なっている」とある。
鬼神祭祀で地霊・穀霊を地上に迎えて祀るんじゃ。
先の大災害から50年を経過して、
王の宮殿と祭殿の再興を計画していた矢先の出来事だった。
またしても大地が大きく揺れ動いた。
先祖から続く土坑祭祀を懸命に行ったが、悪霊の災害を防げなかった。
幸いこの地では、今回悪霊のもたらした災害は前回に比べて被害は
少なかった。
近畿・東海のクニグニの王は倭之国の被害状況が掴めずに焦りを
感じていたが、近江の王は状況を正確に掴んでいた。
近江の王は国中に広がる情報ネットワークを持っており、
クニグニの状況を知っていた。
情報ネットワークって何? かって
そうじゃの~、近江の王の情報ネットワークは、
ちょっと説明がいりそうじゃな。
それは玉作が関係しているんじゃ。
近江の国は大災害の前から玉作をしておった。
今でも玉作が盛んで多くの工房がある。
佐渡島でも大々的に玉作をしているな~。
山陰から北陸にかけても玉作をしているがそれ程数は
多くはないんじゃ。
(出雲が大々的に玉作を行うのは古墳時代に入ってから)
じゃから、近江は玉作のクニでもあったんじゃ。
これまでの話で、何か気が付いたかな?
玉の原石が採れない所で玉作をしているのは近江だけなんじゃ。
先見の明があるご先祖様が、玉作の技術を学び、
原石を取り寄せて始めたのよ。
そのために近江の人は原石を得るために各地に赴き、
また出来た玉を欲しがる畿内や 北九州の王のところへ持ってゆき
交易をしていたんだわ。
江戸時代の近江商人がよく知られているが、
ワシらの時代にも近江商人がいるのよ。
弥生の近江商人は、米を煮炊きする甕と食料を持って移動し
交易していた。
近江特有の甕(近江型土器)を持ち歩いていたので、
交易ルートに沿ってそのような 甕が見つかるんじゃ。
そうして、同時に情報も収集していたということなんじゃ。
情報を持ち、状況を正しく把握している近江の王は動いた。
王は銅鐸祭祀のクニグニへ使者を送った。
近江の王の計画
近江の王にはやり遂げたい計画があった。
2回目の悪霊の禍が起きる前に考えていたことだった。
①宮殿と祭殿の再建
田畑の復興整備、民の住まいの復興に追われ、宮殿の再建は遅れていた。
宮殿の再建と併せて、クニ祀りの祭殿の建てねばならない。
②産業のカミを祀る祭殿の建設
クニ祭りだけではなく、産業のカミを祀る祭殿の建設を考えていたのだ。
より大きな銅鐸を作るために、銅鐸工人を呼び寄せている。
難しい銅鐸製作を無事完工させるための祀りの場が欲しい。
玉作を再開したが、良い玉が安定して作れるように祈らねばならない。
下鈎集落の水運拠点も破壊されたままだ。再建して安全な水運を祈る
必要がある。
それに、貴重で祀りごとに不可欠な水銀朱の生産も始めた。
これら産業の円滑な遂行と安全を祈る祭殿も建てよう、と、
王は計画していたのだ。
この計画は、いずれ「伊勢遺跡の方形区画」と「下鈎遺跡」で実現されることとなる。
前者が、王の宮殿とクニ祀りの場である。
後者が青銅器生産と産業のカミ祀りの場だ。
③悪霊を鎮める祈りの場
近江の王は思った。
そうだ、宮殿と祭殿の建設に併せ、
悪霊を鎮め抑え込む祈りの場を建設しよう。
これが「伊勢遺跡の円周配列の祭殿群」となっていく。
近江の王は銅鐸祭祀のクニグニへ使者を送った。
これまで大きな銅鐸を作って悪霊を鎮めようと努力したが
十分ではなかった。
銅鐸祭祀のクニグニが一致協力して祈ろうではないか。
近江は比較的被害は少なかったし、宮殿再興の計画もある。
銅鐸祭祀のクニの王がここに集まって悪霊鎮静の祈りの場の建設を
相談しよう、と。
出来るだけ集団の力を大きくしたいので、
銅鐸祭祀を止めたり低調なクニにも呼び掛けた。
王やその代理が顔を合わせて協議した。
そこで決まったことは
銅鐸祭祀圏のクニが一致協力して悪霊を鎮めるため行動すること、が
合意された。
具体策として、銅鐸についての取り決めと、
全員で執り行う「統合祭祀の場」の建設について協議した。
統合祭場の建設からさらに発展して、
「銅鐸連合」というクニのあり方にまで話が及んだ。
銅鐸についての取り決め;
話し合って相当踏み込んだことを取り決めた。
・近畿式銅鐸と三遠式銅鐸は、独自に大型化せず、合体したものを造る
・製作中の銅鐸は、お互い相手側の特徴や文様を取り込む
・すでに使用している銅鐸は、顕著な特徴を消し去る
(近畿式銅鐸の頭頂飾耳)
・お互いに相手側の銅鐸を祭祀に用いる
大岩山から出土した銅鐸は、下をクリックするとみられます。
大岩山出土銅鐸(守山弥生遺跡研究会)
大岩山銅鐸の写真で、一番大きいものが「三遠式と近畿式の合体」
したもので、これが最後の銅鐸となる。
ワシは傍から見ていて、近畿の王と東海の王が、
近畿式だ! いや三遠式だ!
と、いがみ合うのではないかと心配しておったんじゃ。
ところが拍子抜けというか、真剣に話し合っておったわ。
誰もかれも、次の禍がいつ起きるのだろうと恐れていたんじゃろう。
これまで、いがみ合っていた近畿と東海の間を取り持ち、
なだめてきた近江の王の成果とも言えるな~。
それで協議は順調に進んだのよ。
統合祭場の建設
個々の祈りでは効き目がなかったので、大勢が力をあわせて祈る場が
必要ということも共通で認識できた。
・統合祭場を近江の地に建て、各クニの銅鐸を持ち込んで祭祀する
これについても近江の王が指導力を発揮し次のように決めた。
①先ず、共同利用の祭場を建て、各クニの銅鐸を持ち込んで統合祭祀を
行う
場所は、長らく土坑祭祀を行ってきた所で、
近江の王の宮殿建設地でもある。
②その後、各クニは自分たち個別の祭場を建て銅鐸を据え、
一斉に祭祀を行う
場所は、近江の王の宮殿の周囲に各クニの祭殿を円周上に配置する
ワシも傍らで議論を聞いておったんじゃが、
銅鐸の議論と違って揉めておったの~。
各々のクニが祭殿を建てるのは大変だから、共同利用の祭祀建物で
良い、と主張する一派と、
クニにとっては神聖な銅鐸であり、個別の祭祀建物としたい、
と言う一派がおってな~。
共同利用の建物を良しとするグループは、
早急に建物を建てなければ次の禍に間に合わない、と主張しておった。
これはこれで、もっともな意見じゃとワシも思う。
個別祭殿を主張する一派は、「カミ」とも言える銅鐸を
共同建物(雑居ビル)に入れることへの抵抗感があったようじゃ。
これも分からないでもない。
結局、近江の王が2段階での祭場建設を提案して、
落ち着いたというわけじゃ。
個別祭殿の建設も、王の宮殿の周りに方形配置や2列配置などが
議論されたが、力を合わせるのにクニの序列は関係ないとして、
各クニが対等となる円周上配列が皆の賛同を得た、と言うことじゃ。
銅鐸連合
銅鐸の取り決めも統合祭場の建設も、
それ以降に出てくる運用上の決めごとも、
一致協力して実行するために話し合う場が必要となる。
こうして、銅鐸連合の形が出来上がり、
実行のためのセンターが近江になった。
近畿族、東海族に強力な武力を有するクニがあるが、
近江の王が主導したことと地理的に便利なことから、
近江をセンターとした緩やかな連合体となっている。
後世には「原倭国」と呼ばれることになる。
祭祀域のグランドデザイン
協議で決めた祭場の配置と祭殿の建設場所、建物の構造案が示された。
祭場は2か所に分ける。
一つは、近江の王の仮宮殿にも近い場所で土坑祭祀が行われてきた
所である。
産業のカミの祭場は、水運拠点のあった下鈎集落近くとする。
急がれるのは北端の統合祭祀場である。
銅鐸連合に加盟するクニは近江の他には23に上った。
今は祭祀の形を変えている旧銅鐸祭祀のクニもいくつか入っている。
統合祭祀場(第一段階)
設計と建設:近江の王
屋内棟持柱を持つ大型竪穴建物を土坑祭祀場の傍らに建てる。
近江と他の23のクニの銅鐸を持ち込んで、結束した大きな力で悪霊を
抑え込む。
急ぐため床は張らずに、銅鐸は大地に直置きとなるため、
地面を焼しめて乾燥させる。
方形区画の宮殿と祭殿(第二段階)
設計と建設:近江の王
主殿・副屋・祭殿を設け、柵で囲う。 楼観(物見台、兵の待機)を
建てる。
円周配列祭殿
祭殿の設計と建設は各クニが行う。裁量を持たせるが、
一定の規制を設ける。
①祭場としての形式を持たせるため、独立棟持柱建物とする
②梁行と桁行に制限を設け、ほぼ同じ大きさの建物とする
③銅鐸の力が大地に直接届くように心柱を設け、その上に銅鐸を据える
④220mの円周上に等間隔で配置し、祭殿は円の中心に向くように建てる
下鈎地区の祭殿
設計と建設:近江の王
青銅器生産と産業のカミ祀りの祭殿を建てる。
祭殿の設計は上記①②に従う。 銅鐸は使わないので心柱は不要。
建設(第一段階)
グランドデザインに従い、先ず、共同で行う統合祭祀場が建てられた。
湿気を防ぐため、中国伝来の紅焼土という技術を用い床には
キメの細かい粘土を貼り付け、
そのうえで火を燃やして焼き締めた。
竪穴の側面は、これも湿気を防ぐために焼きレンガを据え付けた。
いずれも中国伝来の最新の建設技術である。
完成した統合祭祀場へ各クニの銅鐸が持ち込まれ、
第一段階の悪霊を鎮める祈りが共同で行われた。
建設(第二段階)
統合祭祀場に続いて、王の宮殿・祭殿、円周配列祭殿、下鈎地区の祭殿の建設工事が始まった。
方形区画
近江の王の宮殿・祭殿が優先して建設工事に入った。
円周配列祭殿
統合祭祀場に替わるものとして、近江以外のクニ23棟の祭殿が
建設されることになった。
伊勢遺跡の円周配列祭殿は統一仕様のように思われている向きがあるが、
そうではない。
建物の仕様の規制があるとはいえ、各クニの裁量に任された部分があり、
それぞれに個性的な祭殿の建設が始まった。
なに? 建設はうまくいったのか? という質問じゃな
残念ながら、計画は予定通りには進まなかった。
各クニの経済力の違いや、建設工人の取り合いなどあったんじゃが、
それよりも気候不順に見舞われたのが痛かったな~。
長く続く雨や、洪水に見舞われた。
近江の王も代わり、その他のクニの王も代わったな~。
大災害を体験した王が代わり、
地霊の怒りも次第に治まってきたこともあって、
それに輪をかけて天候不順に見舞われ、クニグニの諍いが始まった。
近江の王が計画した「王の宮殿と祭殿」、
「青銅器生産と産業のカミをの祭殿」は完成した。
しかし、クニグニの王が計画した円周配列祭完成したのは
完成したのは十棟ほどで 結局、建設が出来なかったクニもあって、
残念じゃ。