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    凍てつく大地   (2)                青春を奪われたシベリアから帰還して

 話し手   鈴木 登さん


   ❒ロシアの侵攻を無線で知り南への逃走を開始
 
 終戦の年、昭和20年の夏でしたね。ロシアが攻めてくるのも、前の日にわかったんですよ。「ポツダム宣言第何条により、戦争を開始する」っていう電報が出ましたからね。ロシアの国境に日本軍はいなかったでしょ。だから軍の司令部は、後退するしかなかったんですね。我々だって、軍の司令部に情報を送る情報部隊ですから、軍にくっついて歩かなくちゃいけないわけですよ。
 ハイラルにいた時、先輩から紹介してもらった朝鮮人と理髪店をしていた台湾の知人がいましたから、その人と連絡を取って逃げようかとも思いましたね。でも、連絡の仕方がわからなかったでしょ。それに連絡できたとしても、それで帰国できるかはわかりませんからね。部隊の仲間と一緒に逃げるしかありませんでした。
 
 無線の傍受をしていた仲間7人で、6台のトラックに乗ってその場を離れて逃げたんです。無線機なども積んでね。でも、4台が故障してしまったんで、途中で2台になっちゃったんです。運転手は、2名だけしかいなかったんですから。
 
 兵隊の中に運転できるという人がいたんで、やらせたんですけどダメだったんです。夜もスピードを出して走らせてたでしょ。ソ連の連中が早く入ってきたという情報も入ってね。飛行場が爆発しているのが、すぐ近くに見えたりして、道路を逃げることができないんですよ。それで、遠回りしながら南へ逃げましたね。
 
   ❒飛行機から爆弾を投下され、10m先にいた同僚三人が死亡
 
    ブハトウという所まで来て、振り返って周りを見ると人がいなかったんで、2台の無線機を10メートル位離れた場所に設置して、敵の無線のキャッチを始めたんですね。その時でした。飛行機から爆弾を落とされたんですよ。
 
   もう1台の無線機で、キャッチしようとしていた3人の仲間が死んでしまったんです。1人は、頭に当たった破片で頭蓋骨に穴が開いて脳みそが飛び出して即死、もう1人は腹に破片が当たり、痛がっていたので野戦病院に運びましたが、後で死んだとの報告を受けました。あとのもう1人がどうなったかは、私は見なかったのでわかりません。
 
   確か1人は、結婚していて奥さんと小さな子供がいましたね。家庭を持っていた人は、ロシアが来ると前日に無線でわかった時点で、先に家族を逃がしたんで、その人も奥さんと子供は先に逃げていたんです。
 
   それだけじゃないんですよ。ハイラルの部隊の中で、子供が何人もいた家庭には、その家族を守るために部隊の男性をつけて、その逃げる子供や女性と行動を共にするようにしましたね。
 
   私達は、軍と共に行動しなくてはいけませんから、逃げるのが遅れたんですね。その場所には、穴は掘ってなかったですが、U字溝の防空壕があったんですね。上側は開いてますけど、当たったのは爆弾といっても破片だったんですから、そこに入っていれば助かったと思いますね。目の前にいた同僚3人を、一瞬にして失ってしまったのはショックでしたね。
 
           ❒家族連れの人達と別れて逃げる
 
   私は日本が降参してから、1カ月位は捕まらなかったんですよ。でも、これじゃとても日本には逃げきれないので、仕方なく軍人の中に入ったんです。軍隊と一緒に逃げた方が守ってくれるだろうし、皆でそうしようということになったんですよ。軍人の生活をしたことはないですけどね。
 
    何とかチチハルという所まで逃げてきて、そこから電車に乗ってハルビンまで逃げました。そこで「危険物を出せ」と言われて出したので、軍刀やステッキはその時に出したんだと思います。
 
    ハルビンからは、そこまで一緒だった家族で逃げてきた人達とは、別れて行動することにしたんです。家族は、子供や女性がいるので逃げるのに時間もかかるし、男性が一緒にいて家族を守らなくちゃいけませんからね。話し合って、別れて逃げることにしたんですよ。子供や女性はしっかり見てないと、何をされるかわかりませんからね。
 
    実際に、ハルビンで列車から降りた後、結婚一年目位の新婚の仲間の奥さんがロシア兵から強姦されてしまったんですよ。気の毒でしたね。後から、仲間だった旦那から「私に殺してくれと言う女房に、何も言うことができなかった」と聞きました。その夫婦にはまだ子供はいなかったんですけど、その後どうなったかはわかりません。
 
    捕虜でも結婚していた人には、家族で入る収容所が別にあったんですよ。奥さんは、当初は働かなかったようですが、子供のいない家庭の奥さんは何もしていないので、仕事をさせられるようになったと聞きましたね。
 
           ❒ロシア兵に列車を降ろされ、線路上を歩かされる
 
    ハルビンで家族で逃げる人と別れてからも、とにかくウラジオストック経由で帰ろうと電車に乗っていたんですが、吉林(キツリン)でロシア兵に列車を止められて、電車を下されてしまったんです。そこからは、皆で歩くことになってね。それで、3日か4日位歩かされたんですよ。
 
   八月は雨が多く降るんです。それで、濡れている狭い2本のレールの間を歩かされたから、皆まいっちゃいましてね。ただ、日本に帰るんだという気持ちだけで歩いていましたね。私も、足のかかどにびっしりマメができちゃいました。私達は、牡丹江(ボタンコウ)という場所にあった弾薬庫の跡に集めさせられたんです。
 
           ❒牡丹江の弾薬庫跡地にテントを張ってざこ寝生活を送る
 
    ハルビンで別行動を取ることにした家族で逃げていた人達も、私たちの後を歩いて、弾薬庫の跡まで付いてきたんですけどね。狭い場所に大勢がテントを張ってざこ寝し、トイレもない場所に、女性や子供が一緒にいるわけにはいきませんからね。それで、弾薬庫には入らず、さらに南へ逃げたんです。でも、それによって、その人達の中には大連(ダイレン)に出て日本に戻れた人もいたんですよ。
 
   その弾薬庫の跡にいたのは、1か月位だったですかね。弾薬庫は、地面を掘った地下になってましてね。地下の土の上にテントを張って、ざこ寝していました。トイレなんてありませんから、端の方なんかに穴を掘って用を足していましたね。
 
    食事は、飯ごうで飯を炊いて自炊しました。米などの食料は、逃げるときに靴下や下着の中に入れたりして、皆ある程度持ってきたんですね。ロシアが攻めてくるのが1日前にわかったんで、私も同僚から兵器や生活用具を持って行けと言われたんです。同僚といっても、私が1番若かったんで、皆先輩として何かと私を気にかけてくれたんですよ。靴下が重かった記憶があるので、米などを詰めたんだと思いますね。結構入るもんなんですよ。軍には、燃料に使っていた石炭がたくさんあったので、それを燃やしてご飯を炊いたりしたんです。その周辺にあった木の切れ端なんかも使いましたね。
 
    それは良かったんですが、大変だったのは水がなかったことでした。地下ですから、雨水のたまり場がいっぱいあったんですね。仕方がないんでね。その真っ黒い水を飲んだり、炊事に使っていたんですよ。浮いている土などを沈殿させて、上の方をすくったりしてね。私は、そこで生まれて初めて、こうりゃんを自分でついて食べましたよ。
 
    中国人がおにぎりを作って売りに来てたんで、金があった人は買って食べてましたね。1個10円してね。私も2~3回食べたと思いますが、高いのを食べたなって思いました。私は、それでも200円だけ残っていたのかな。その金を、捕虜になったシベリアまで持っていきました。使うことはできなかったですけどね。軍に預けていた金は、もっとあったんですけど、持って来れなかったんですからしょうがないですね。
 
   ❒日本に帰すと言われて列車に乗るも、ロシアに連れて行かれる
 
 その弾薬庫の跡地に来て1か月位経ったとき、日本に帰れると言われたんです。それで全員が貨物列車に乗せられて、ウラジオストックのある南に向かったんですけど、日本に帰すなんて嘘だったんですよ。もうすぐウラジオストックに着くと思っていたら、その手前で列車は進路を北に変えてしまったんですね。
 
 乗っていた私達は、途中で停止した列車の中に2日ほど閉じ込められましたが、ハバロフスクの先まで連れていかれました。そこで、数人づつに分けられて、捕虜としてかってロシアの囚人が入っていた各地の収容所に送られたんです。
 
 厚生労働省からもらった私の抑留資料によると、私は満州のハルビンで昭和20年8月20日に捕虜になったと書かれてましたよ。
 
   ❒捕虜となりハバロフスク近くの収容所に送られる
 
 シベリアは、ロシアの囚人が開拓したところですからね。各地に収容所があるんですよ。私は、ハバロフスクの西の方にある収容所に入りました。西でなく、北だったかもしれませんけどね。
 
 その収容所に入ったのは、11月3日でした。その日は明治天皇の誕生日だったんですね。そしたら、軍の幹部が皆を東の方にむかせて、天皇陛下に対する敬礼の指揮を執ったんです。敵に捕虜になった日にですよ。どんな状況に置かれても、「天皇陛下のため」ですからね。当時は、そういう時代だったんですよ。
 
 収容所は、囚人を入れていた場所ですから、街からは外れた周りに家がほとんどないところでした。建物は木造で、上の方まで鉄条網が張られた2~3メートル位の高さの木の塀に囲まれていて、入り口は1か所でした。四つ角に棒が立っていて、見張りがついていましたね。
 その収容所は空いていたんですが、古い施設で人が住める状態ではなかったので、そこに入れられる日本人が皆できれいに片づけたり、自分たちが使う2段ベッドを作ったりして入ったんです。
 
 そこから私の捕虜としての生活が始まったんですよ。捕虜として、ソ連の建設5か年計画を達成するための労働者として使われたわけです。関東軍 60万が捕虜になったということなんですけど、実際のところはわからないですね。
 
   ❒シベリアの気候
 
 シベリアは、思ったとおり寒さの厳しいところでしたね。冬場の日の最低気温は、マイナス30度、昼間でもマイナス10度位でした。最も高温になる時期は5~6月で、昼は15度位になる事もありました。しかし、8月には霜が降りましたね。もっとも寒いのは、11月~12月でした。雪はあまり降らなかったですが、寒いので土の上は凍ってしまうんですよ。
 
 北風が強い日はありましたが、嵐のようになる事はなかったですね。野菜はあまりできず、作っていたのはじゃがいも、キャベツ、ニンジン。ねぎ程度でした。木は、エゾマツ、しらかば、トドマツなんかが多かったですね。
 
   ❒木のベッドに干し草を敷き、服を着たままで睡眠
 
 収容所には、囚人が入る檻のある部屋があるでしょ。20人~30人位は入れたその部屋に、自分で作った木のベッドが置かれてそこで生活しました。檻に鍵をかけることはなく、収容所の中は自由に出歩けましたよ。
 ベッドには普通は藁を敷くんですが、藁がないので干した草を敷いて寝ました。布団はなく、毛布があるくらいでしたから、服を着たまま寝てましたね。服は着替えなんてないですから、1カ月位は着たきりでした。
 
 風呂は、水をためる場所を作ってね。そこに水をためて、代わりに使っていました。入ることなんてできないですから、水をかけて体を拭くぐらいのものでしたね。トイレは、ありましたよ。でも凍ってしまうんで、ツルハシで掘っていました。
 
 収容所の中には売店もあり、ソーセージ、パン、鮭などを売っていましたが、1つ100円位して高かったですね。
 
   ❒木の伐採やレンガ作り、収容所での作業
 
 収容所の地域には、シベリア鉄道の支線が1本だけしかなかったんです。昔はもっとあったんですよ。でも、その支線に敷かれていたレールは、全て戦争で使ってしまったんですよ。それで、支線を作るために、レールを敷く作業をさせられました。周りの木を伐採して、枕木として並べてね。そこにレールを敷いたんですが、そのレールは満州から持ってきたものでした。横取りしてきたんですね。
 
 冬は土木作業、夏は木の伐採や草が伸びるので、草刈りや干し草づくりなどが主な仕事でした。6メートルも掘れば冬でも凍らないんで、土管を入れたりU字溝を作るんです。土木作業は、冬の方がやりやすいんですね。それで、道路工事は冬にやりました。
 日本では、土が崩れないように杭を打ちますけど、シベリアでは翌日には凍ってしまうので、杭を打つ必要がないんですよ。冬に木を切るのも、木が凍るので氷を切るように簡単にできるんですね。石灰岩を取ってきて、塀などに使う石灰を作る仕事もやらされ、まきは凍りつく前に切って貯蔵させられました。
 
 粘土からレンガを作る仕事もありました。レンガ作りは、馬を使ってグルグル回して、練った粘土を四角い型に詰めて固めてね。粘土が固まったら、その型をゆすぶってふたを開け、板の上に載せるんですよ。そして、その板を棚にさして、1週間位乾燥させたものを焼いて作ったんです。伐採した木は、家の建設だけでなく、レンガを焼くまきにも使ったんですね。 
 
 普通の日本人は1日8時間労働でしたが、捕虜なので9時間労働でした。重労働だったですね。日曜は、国際法で決まりもあるので休みになっていましたが、石炭おろしなどに使われたりしました。
 
   ❒仕事のノルマは健康状態で決定
 
 1人の見張りが、1つの部屋の20人~30人を管理していました。見張りといっても、作業中にさぼっている人間を監視していたんじゃなく、逃げないように見ているだけでした。作業の指導者は別にいたんですが、作業中に休憩を取ることは自由でしたよ。
 
 強制労働は朝の8時から始まり、働かざる者食うべからずでした。でも、ノルマでしたから仕方ありませんね。捕虜でも、毎月300ルーブル(日本の金で300円)はもらえましたよ。渡された金は紙幣で、スターリンの写真が印刷されてましたね。その金は、収容所の売店で食べる物を買うのでなくなりました。皆、ひもじかったですからね。
 
 捕虜は、体格や健康状態で1級~3級に分けられて、それぞれ要求される作業の量が違うんですよ。私は1級になったことはなく、ずっと2級でしたね。2級の人は、1級の80パーセントの仕事をすると、1級の人と同じノルマをやったとみなされるんですよ。私は2級だったんで、1級の人の80パーセントやればいいんですけどね。負けず嫌いだから、1級の人と同じ仕事をやっていましたよ。
 
   ❒収容所の1日
 
 収容所の1日は、朝7時頃レールに穴をあけて針金でぶら下げた金を、鉄の棒でたたいて起こされるところから始まるんです。その後に、外に集合して朝礼があり、食堂で支給されるパンをもらうんですよ。ぼそぼその450グラムほどのパンでね。1日1回、1個だけでした。1度に食べることもできましたが、何回かに分けて食べてましたね。スープも支給されるんですけど、食器がないので自分で作って持って行ったブリキの入れ物に入れてもらうんですよ。
 
 朝八時から作業をやらされて、昼飯はその現場で朝にもらったパンの残りを食べました。5時位に作業が終わり、夕方の朝礼があって夕食を食べる、そんな毎日だったですね。
 
   ❒零下20度位の外で、点呼が終わるまで待たされる朝礼
 
 朝礼は、外に集合させられて点呼を取るんですが、そこで数えた人数と捕虜の人数が合うまで終わらないんですよ。零下何度になっても、外に終わるまで立たされました。
 
 朝礼と言っても、朝と夕方に点呼を取ることの繰り返しで、集まった捕虜に誰かが話をすることはないんですね。時間通りに集まっても、収容所内に捕虜が隠れたりしていないかを探す間、ずっと待っているんです。それで、もう隠れている者がいないとなると、点呼が行われたんです。号令をかけて点呼を取るんですが、号令は日本語がわかる日本人がかけていました。
 
 ロシア人は、数字の計算ができないんですね。号令を通し番号で行うと、大きな数字になるのでわからないんですよ。それで、5人ずつに並ばせて、数えるときに前から順に50ずつ1歩前へ出させて、その5人の列がいくつあるかをいちいち確認して計算するんですね。外に集められて、建物の中に残っている人間がいないかを探すのに30分、点呼を取るのに30分位もかかるんですよ。マイナス20度位の寒さの中でしたから、それが一番つらかったですね。
 
 とにかく数えるのが遅いので、私が「そんな計算はいらない。」と言ったら、「ロシア語ができるんなら、お前が数えろ。」と私が数えさせられました。こうやるんだと私が数えたら、「嘘ついている。その数は違う。」って言うんですよ。その時に数えていたロシア兵は、将校だったんですけどね。
 
   ❒高校などを出れば将校になれるロシア兵
 
 ロシア人は、まともな教育を受けていないんですね。それでも高校などを出たロシア人は、軍隊に入れば必ず将校になれたんです。日本では、大学を出ても将校にならない兵士もいたんですけどね。そのことを話した私に対し、「専門学校を出たんだから、将校になれないはずがない。うそだ。」って、ロシアの人間は最後まで納得しなかったですね。
 そんな学校を出たというロシア兵でも、計算はできない状態だったんですからね。こんな連中の下で働かされるのかと思いましたね。
 
   ❒多かった寒さによる捕虜の死亡
 
 シベリアは寒かったから、寒さで亡くなった捕虜も結構多かったですね。特に収容所に入った当初にね。寒さに慣れてないし、ろくなものも食べてないので、耐える体力がなかったんでしょうね。
 都会にいて、うまい物なんか喰っていた人は、ついていけなかったんじゃないですか。私なんかは田舎で育ちましたから、粗食だったんで苦にならなかったんだと思いますね。
 
   ❒病気になっても、薬や医療道具がない
 
 霜焼けなどの凍傷にならないようにするといっても、薬がないんでね。こするしかありませんね。幸い、私は霜焼けになったり、風邪もひきませんでしたね。医療の専門家は、いたみたいですね。私は、病気などになったことがないからわかりませんけど、日本人の衛生兵なども手伝わされていたようですよ。
 
 私が歯が痛くてしょうがなくなった時、薬や道具もないので、麻酔もせずにペンチで歯を抜かれちゃったんですよ。痛くてたまらなかったですね。そんな状態でしたから、ある時、同僚から歯磨き粉をフライパンで炒ったのを、薬だと言って飲まされたと聞きましたよ。
 
 収容所では、1カ月に1度健康診断は行っていました。それをすることは、国際法で決まっているらしいですよ。健康診断といっても、測るのは身長や体重だけでしたけどね。後は体格を見るのですが、なぜかわかりませんけど、皆お尻の肉を指でつままれました。でも、まともな食事はしてないのに、私の体重は不思議と変わらなかったんですよ。
 
   ❒捕虜の服装
 
 身に着けた物ですか。足は、靴下がないので布を巻いてね。それで靴を履きました。ふんどしみたいなタオルみたいなのを、下半身に巻きましたね。上には、ジャンバーを着ました。冬は、羊の毛の靴を履いてました。軽くて暖かくて一番いいんですけど、氷が解け始める時期になると、水がしみ込んじゃうからダメでした。でも、一つしかないから、春になってもそれを使うしかなかったんですよ。手には手袋をはめ、頭には防寒の帽子をかぶりました。
 
   ❒服や毛布も、全て満州から持ってきた物を使用
 
 でも、これはロシアからもらったんじゃなくて、全て満州から持っていった物だったんですよ。毛布もなければ出してくれましたけど、満州の物を使ったんです。缶詰の周りに巻いてある紙まで、満州から持っていってはがして使ったんですよ。裏側が白紙なので、使えますからね。蓄えていた3年分の食料などもね。どんなに苦しくても、満州には砂糖もあるし、必要なものはみんなありましたからね。
 
   ❒昆布が野菜の代わり、水で量を増やしたおかゆやスープ
 
 私は収容所の調理係もやっていて、おかゆなんかを作りました。ねっとりしてぶよぶよで、米の形なんかないんですからね。そこに毎日のように入れていたのが、昆布です。昆布のことは、ロシア語で「モーレーカブスター」って言うんですよ。直訳すると「海のキャベツ」です。ですから、収容所では、野菜の代わりだと言われましたね。昆布だって形はないですけどね。私は、かって家内にも「昆布はすでにロシアで一生分食べた」と言ったこともありましたよ。
 
 食物なんて言える物はなかったですね。たまに肉と言っていたのだって、牛の頭でしたよ。骨と皮しかないんですよ。それでは、どうしようもないので、斧で頭を割ってだしを取り、コウリャンとかあわを入れて炊いていましたね。大勢に食べさせるんで、量を増やすために水をたくさん入れて増やして煮るんですよ。調理場はあったけど、冬なんかは野菜もカチカチに凍り、油も凍っちゃったから、大変でしたね。
 
 ロシアではそばも食べましたが、そばは穀物の中で最も短期間で収穫できるんでね。地面が凍る期間が長いシベリアでは、穀物はそば位しか作れなかったんじゃないですか。新規に開拓したところには、そばを良く作ってましたよ。そのほか、穀物といえばキビ位だったですね。
 
   ❒朝にもらうパンを昼と夜にも分けて食べる
 
 収容所の食事は、一応3食はあったですね。いつも同じものでしたけどね。朝にもらうパンは、3回に分けて昼と夜も食べました。後は味噌スープが付きました。具なんか入ってないですよ。油が浮いているなと思ったら、鮭の頭の骨から出た油だったといったもんでしたね。味噌汁、スープとは言えませんよ。でもそれが、その時はおいしいんですよね。アムールの水だということでしたが、「最低だ。こんなの飲めるか」と言ったんだけどね。
 
 昼と夜は、出るのはスープだけでしたね。コーリャンを炊いたものなんかも食べました。ただ、塩味をつけただけでね。おかずなんてありません。何でも手に入った満州とは、大違いですよ。満州でも、砂糖を買う時だけは、1人1日2キロまでという制限はありましたけど。
 
 収容所では、休日になっても考えるのは食べることだけでしたけど、食べれるものは何もないんでね。看守がいるし、ごろごろ寝てるしかなかったですね。ひもじかったですね。そんな時でしたから、集まると食べ物の話ばかりでしたし、道路工事なんかをしていて蛇がいたりすると、喜んで捕まえて焼いて食べましたね。
 
 嫌だったことですか。まずは寒さですね。それと腹が減っていること、それから、他の日本人から「あいつはスパイだ。」と言って、皆の前でつるし上げられて恥をかかされたことですね。 
 
   ❒日本人はバラバラに別れて収容所に入る
 
 その収容所には、初めは日本の部隊が主力でしたから、日本人だけが入っていたんですけど、スパイをしていたことが知られて捕まると危険だということで、バラバラに分かれたんです。捕虜になった者の人数を分けたりするのは、日本の中心者、部隊長に任されていたので、皆が別の収容所になるように分けたんだと思いますよ。
 
 日本人がバラバラに分けられたことで、私もやはりハバロフスクの近郊だと思いますが、別の収容所に移りましたね。そこでは、日本人は15人位になり、後から入ってきたソ連の囚人達と一緒だったですね。独ソ戦が終わってから、ロシアの囚人が入ってきたんです。ウクライナの16歳~60歳位までのほとんどが女性でしたね。30人位だったと思いますね。
 
 女性なので部屋は別でしたが、1度「何でここに来たのか。」と聞いたら、「ドイツ人に協力したから、シベリアに流刑されてきた。」ということでした。夏のうちに来て、草を刈って干草を取る仕事をして、ひと夏いて帰っていきましたよ。    
 
 収容所での生活が1年半位経った頃でしょうかね。私は収容所の人達と切り離され、日本人ばかり20人程の人達と一緒に収容所から出されて、草原の中で作った小屋に入って生活するようになったんです。
 
 草原に穴を掘って、やぐらを組んで土をかぶせた住まいを作り、そこで寝泊まりしたんです。その中でまきを燃やして暖を取りましたが、土の中でしたから温かかったですね。その住まい1つに5~6人位が入り、全体でもロシア人を加えて常時20人位が行動を共にしていました。
 
 ここでやった作業は、干し草をプレスして針金でまとめ、干し草市場に運搬することでした。夏のうちに干した草に、馬を使って針金を回してプレスして、一定の形にまとめるんですね。そのでき上がったものを、冬場に20キロ位離れた市場に運んだんですね。以前やらされた仕事とは、比べられないくらい楽でノルマも全然なくなったんです。食べる物は、決まっていましたけどね。
 
 市場に運ぶには、4~5人でそりに完成した干し草を載せて、馬車で道のないところを2時間位かけて行くんですね。夜はオオカミがいるので歩けませんから、昼のうちだけですよ。
 
   ❒川に魚道を作り、捕った魚を市場で物々交換
 
 休みの日は、川で魚を捕ったりしました。川を柳や白樺の木でなどでせき止めて、杭を打ってね。真ん中に一か所、魚の通る魚道を作って、そこに入ってきた魚を捕まえたんです。その魚道は、凍っている川に杭を打って木を竹みたいに裂いて、針金で編んだもので流れを止めて作ったんですよ。田舎で、細い竹を編んでかごなんかを作ったことがあるので、木でも同じようにできるかやってみたんですね。
 
 シベリアですからね。鮭が取れましたよ。楽しかったですね。その鮭は炒めても食べましたが、干し草の中に隠して市場まで運び、パンやたばこなどと物々交換しました。けっこう喜ばれたんですよ。
 
 監督するロシア人もいたんですけどね。向こうも囚人でしたから、ナーナーでしてね。ばれても、別に大丈夫でしたね。パンは毎日朝にもらっていましたが、そのぼそぼそのパンに比べれば、物々交換で手に入れたパンは白くて、うまかったですね。
 
 今考えると、外国に捕えられていたんですけどね。大自然の中で草原に穴を掘って作った住まいで暮らしたり、魚を捕ったりしたこの時が、私はこれまで一番楽しかった時だったと思うんですね。住むことも食うことも心配いりませんでしたから、幸せでしたしね。とにかく楽しかったですからね。
 
    ❒たばこの茎や柳の葉などを巻いてたばこ代わりに吸う
 
 たばこは買うこともできましたけど、栽培した後のたばこの根っこを乾燥させて細かくして、新聞で巻いて吸っていましたよ。売っているたばこは葉を巻いたものですから、茎を根を巻いて吸って葉の代わりになるかって思うでしょ。でも、茎や根は葉以上に臭いが強いんですよ。マッチはないので、火は石でおこしました。缶に綿を入れて石でつけるんですね。それはノルマがなくなってからでしたけどね。
 
 ノルマがあったときも、外へ出て柳やヨモギの葉っぱなんかを取ってきて吸ってましたよ。たばこは吸えましたが、酒を飲むことはできなかったですね。
 
   ❒身元調査で、スパイだとロシアに密告されたことを知る
 
 収容所の外に出て作業をしていたとき、ロシア側から身元調べを受けました。内容は「何の仕事をしていたか」と、ロシアに来る前の仕事を聞かれたんですよ。
 そのロシア人の前には、取り調べた内容を1人ずつ記入するノートが置かれていたんですね。無線の傍受をしていたとは言えないと思いながら、そのノートを見たら、私のページに「無線傍受をしていた」と書かれていて、ハイラルで一緒に傍受の任務に就いていたUのサインがしてあったんですよ。
 
 Uは自分が取り調べられたときかはわかりませんが、私がスパイをしていたことをロシアに密告していたんですよ。私より10歳位年上の男でしたけどね。同じ任務をしていた同僚が、サインまでした内容を打ち消すことなんかできませんよ。同僚を裏切るなんてひどいですね。
 
 収容所の外にいたときは楽しかったんですけど、後で考えれば、私が収容所の他の捕虜たちから小人数のグループに分けられて別の作業をさせられたのは、Uの密告によって私がスパイであったことを知ったロシアが、私を特別に監視するためだったんですね。
 
   ❒ロシアの囚人と共に刑務所に入れられる
 
 捕虜となってロシアに連れてこられて2年位して、私の戦犯としての刑を決める極東軍事裁判という裁判がありましたが、その1か月ほど前にハバロフスク郊外の刑務所に入れさせられました。そこは、裁判前でまだ刑が決まっていない未決犯が入っている刑務所で、ロシアの囚人と一緒でしたね。
 
 そのロシア人は、全部経済犯でした。思想犯と経済犯は、別々に入って来るんです。スパイの私らのようなのは思想犯ですね。物を盗んだりする連中は、経済犯になるんですね。ロシアの囚人に「どうして刑務所に入ったんだ」と聞いたら、ねぎを5本盗んで5年の刑を食らった」と言ってました。「思想犯じゃないんじゃないか」と言って笑ったんですけど、ねぎ1本分が1年の服役でしょ。いい加減なもんですね。
 
 ロシア人の囚人は、知り合いなどからの差し入れを受けることもできたんですね。私は、そのロシアの囚人達とチェスもやりましたよ。ロシアの連中がやっていたのを初めて見て、日本の将棋と似ているなと思って覚えたんです。他にすることがなかったんで、何度もやってたら私の方が強くなりましたね。そのチェスは、刑務所で貸してくれたんですね。ロシアの囚人は、刑が決まると他の場所に動いていきました。 
 
   ❒刑務所での生活と取り調べ
 
 ロシアの囚人と一緒だったときには、部屋にはロシア人のボスがいました。牢名主ですよね。別に怖くはなかったですけど、朝食の時にもらったパンの一部を皆ボスにあげるわけですよ。そして、そのボスが自分でも袋を持って、規則だと言ってパンを受け取りに歩くんですね。そのことは公になっていたんですが、ロシア兵も何も言わずに認めていたんですよ。長く刑務所に入っている年配者が、ボスになったんだと思いますよ。
 
 その刑務所では、取調室に呼ばれて通訳を介して取り調べを受けました。同僚に密告されて私が満州でスパイをしてたことは知られていましたから、「どんな仕事をしていたか」という質問には、「スパイをしていた」と正直に答えるしかありませんでした。
 
そこにいたときは、作業はありませんでしたが、運動不足解消のためか毎日午後に1時間位、敷地内の庭を散歩させられましたね。
 
   ❒裁判所に呼び出され、刑を受ける
 
 刑務所に入って1か月位した昭和24年9月6日、ハバロフスクの裁判所から呼び出されて裁判を受けました。厚生労働省からもらった私の抑留記録に載っている「軍法会議っていうのが、正式の名前なんだそうですが、裁判官もいましたから、「裁判」って言わしてもらいます。
 
 最初に、裁判官から「弁護士を付けますか。日本から呼びますか。」と聞かれましたけど、弁護士なんているわけはないし、呼ぶのだって無理ですよ。それで、弁護士なしの裁判になったんですね。案の定、「こういう人を知ってますか。」って私がスパイをしてたことを密告したUのこと聞かれましたね。同僚に密告されたんじゃ、白状しないわけにはいきませんからね。「一緒にスパイをしていた同僚だ」と答えざるをえませんでした。
 
 それで、私の刑が決まったんですね。でも、その法廷で「もうその人は日本に帰りました」と通訳から言われたときには、腹が立ちましたよ。自分が祖国に帰るために、仲間を敵に売ったことに怒りがこみ上げてきましたね。日本に帰って、2年目に上野精養軒で同じ部隊の集まりがあったんですけど、Uは来ませんでした。
 
 その裁判所は4階建ての建物だったと思いますが、裁判の法廷に行くのにエレベーターに乗りました。私は、脱いだ靴の裏側でそのエレベーターの壁に、「日本人ここにあり」って書いたんですよ。「日本人なのに、このロシアから祖国へ帰ることができない」という気持ちだったんだと思いますね。法廷に行くときか、裁判が終わって帰る時かは覚えていませんけどね。
 
 そのエレベーターで、私と同じ裁判で来た関東軍の松村参謀長と乗り合わせ、「何しに来たんですか」と聞かれ、「裁判です」と答えたことを覚えています。他にも何か話をしたと思いますが、覚えていませんね。 
 
   ❒日本人だけの刑務所に入る
 
 裁判を終えた私は、ハバロフスクの街中にあった刑務所に移らされました。そのうち、満州で無線傍受をしていた連中も、裁判で私と同じ刑を受けて私の入っていた刑務所に送られてきたんですね。皆久しぶりに会うんで、「おう、おう」なんて言ってね。懐かしかったですよ。そんなわけで、そこは日本人だけの刑務所になったんですよ。 
 
 スパイだったことを知られて刑を受けてからの刑務所生活は、大変だったと思うでしょうけどね。木を伐採したり、石灰やレンガを作ったりする収容所での1年半の重労働から解放されて、大事に扱われるようになったんですね。なぜ、そうなったかはわかりませんけどね。国際法で決まっていたらしいですよ。 
 
 刑務所では、それまで囚人が働くことはなかったんですよ。でも、動かなくては体が持たないので、囚人の方から話して働くことになったんです。私も「鈴木さんも働きませんか」と、日本の囚人から声をかけられたんですよ。工場へ行って、タイル張りや旋盤を使っての仕事をやりました。私は技術がないんで、旋盤はできませんでしたけどね。でも、大した仕事じゃなかったですね。
                       (3)に続く(全3編)
                             
#創作大賞2024    #オールカテゴリ部門     #牡丹江   
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