【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第一章「小猿米焼く」 後編 4
さて、蘇我氏はどこから来た、何者なのだろうか?
人々は、ここ半世紀で急拡大した蘇我氏の権力に、あらぬ噂をたてる。
大王の落とし子だとか、半島貴族の出自だとか、その噂はまことしやかに広がっていく。
『尊卑(そんぴ)分脈(ぶんみゃく)』には、蘇我の系譜を「彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)(孝元(こうげん)天皇の皇子)―屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)―武内宿禰(たけうちのすくね)―石川宿禰(いしかわのすくね)―蘇我麻智宿禰(まちのすくね)」としている。
3人目の武内宿禰といえば、5代の天皇を補佐してきた偉人であり、後世、宰相の手本として尊敬を集めていたが、多くの人は自分の一族を良い出自に見せるための作り話だと思っている。因みに、武内宿禰を起源とする一族は、平群氏・葛城氏・巨勢(こせ)氏・紀(き)氏・波多(はた)氏・江沼(えぬ)氏、そして、蘇我氏である。
4人目の石川宿禰は、蘇我家の分家である蘇我倉山田石川麻呂臣(そがのくらのやまだのいしかわのまろのおみ)に纏わる人物である。
さて、最後の蘇我麻智宿禰は、『古語拾遺』に、「蘇我麻智宿禰をして三蔵を検校(しら)しめ」とある。
当初、大王の下には、祭器を納める斎蔵と大王の財産を収める内蔵の二つの倉庫があったが、大和王朝が拡大するに到って、大王の個人所有物と朝廷の管理物を明確にするため大蔵が増設された。
その時に、麻智がこの三蔵を管理になったと蘇我一族は喧伝している。
が、これもの蘇我氏が、自己の起源に威厳をつけたかっただけと人々は皮肉る。
麻智以降は、『公卿補任(くぎょうほにん)』に、「麻智―韓子(からこ)―高麗(こま)―稲目」とある。
韓子は、韓国(からくに)の子供という意味であるし、また、韓国と倭国の混血児を韓子と言った。高麗は、半島の一般的呼称でもある。
このため、蘇我氏は渡来人であるという噂が絶えない。
麻智を百済の亡命貴族、木満致(もくまんち)と同一人物とみる人も多い。
が、単に蘇我倉山田石川麻呂が、倉の管理とともに三韓朝貢の上表文を奏上する役割も担っていただけで、半島と血は流れていないと見る向きもある。
ただ、蘇我氏が半島と何らかの関わりがあったのは確かだ。
蘇我稲目以降の系譜は、「稲目―馬子―蝦夷―入鹿」であるが、この系譜には、有力豪族であり、大王に妃を出していた葛城氏の血が流れている。
蘇我馬子は、推古天皇の治世32(624)年に、「葛城県(かづらきのあがた)は、元臣(もとやつかれ)の本居(うすすな)なり。故、其の県に因りて、姓名を為せり」と言って、天皇に葛城県の割譲を願い出ている。
結局、この時は拒否されるのだが、馬子は葛城氏と深い関わりをもっており、葛城大臣とも呼ばれていた。
神話上の大人物の末裔や、半島の出自や、色々噂はあるが、本当のところは、蘇我氏は葛城氏から生まれた一派で、葛城氏が権勢を失うとともに比例して、徐々に権力を拡大していった成り上がり豪族であった。
因みに、蘇我とは植物の「菅」の意味らしい。
植物を名前に持つ氏族は少ない。
葛城も「葛」の意味である。
また、藤原氏も花の「藤」であり、中臣鎌子の息子である藤原(ふじわらの)不比(ふひ)等(と)が蘇我の娘を娶り、その後、大王家と強く結びついていく。大王家と関係を持った一族が、姓に植物名を抱く、「葛城―蘇我―藤原」と、系譜を続けていくのは面白い。
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