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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 前編 1

 大伴(おおとも)氏は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の五世孫 ―― 天忍日命(あまのおしひのみこと)を先祖とする大王(おおきみ)家の軍事集団で、天孫降臨に際し、久米直(くめのあたい)の祖である天津久米命(あまつくめのみこと)とともに、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)の先導役を務めたと云われている。

 ただし、軍事が彼らの本来の仕事ではなく、その名前が示すとおり「伴」という大王家に隷属する職業集団の取り纏めが大伴家の役割であった。

 大王家の職業集団にはもちろん軍事集団も含まれていたので、これらを掌握し、宮廷内で存分に活用することにより、物部氏と並ぶ軍事集団としての性格を強くしていった。

 大伴氏が、宮廷内で確固たる地位を掌握したのは5世紀中頃で、大伴室屋連(おおとものむろやのむらじ)が雄略(ゆうりゃく)天皇から大連(おおむらじ)を賜ったことに始まる。

 この後、大伴氏は室屋大連とその孫の金村大連(かねむらのおおむらじ)により、約1世紀近くに渡り中央政界を治めていくことになる。

 因みに、金村大連には歌(うた)という兄弟がいたが、これが佐伯(さえき)氏の先祖になり、彼より九代孫に佐伯真魚(さえきまお)が誕生する。

 真言宗の開闢 ―― 弘法大師こと空海である。

 我が世の春を謳歌していた大伴氏に、一度目の陰りが見え始めたのは、欽明(きんめい)天皇の治世元(540)年のことである。

 この年の9月5日に、欽明天皇が群臣を集め、新羅征伐の是非を問わせるが、許勢稲持臣(こせのいなもちのおみ)と物部尾輿大連(もののべのおこしのおおむらじ)が進み出て、金村大連が継体(けいたい)天皇の治世6(512)年12月に百済へ任那(みまな)四県の割譲を許可したことが新羅の怒りを買っているので容易に攻めるべきではないと、金村大連の半島政策を批判したのである。

 金村大連は、この政策の責任を取って自ら職を辞したが、以後大伴氏が中央政界を掌握することはなかった。

 あの松浦の佐用姫(さよひめ)で有名な大伴狭手彦連(おおとものさでひこのむらじ)は、金村大連の三男である。

 大伴氏が、再び中央で華々しい活躍を見せるのは、金村の孫にあたる長徳連(ながとこのむらじ)の時である。

 彼については、すでにご承知のことと思うので多くは語らないが、大臣にまでなった彼は白雉2(651)年7月(『公卿補任』)に故人となり、その後大伴氏は再び不遇の時代を迎えるのであった。

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